頑固な標的
鏡の逮捕から3日が過ぎた。
夏の日差しは衰えるを知らず、アスファルトを焦がすような熱気がキャンパスを包み込んでいる。
蝉の鳴き声が、まるで脳味噌を直接揺さぶるような大音量で響き渡っていた。
僕は額から滴り落ちる汗を拭いながら、理学部の研究棟の前に立っていた。
無機質なコンクリートの塊のような建物。殺風景で、どこか刑務所を連想させる威圧感がある。その3階に、今回の「標的」がいる。
田中教授。量子物理学の権威として知られる一方で、学部内でも指折りの変人として恐れられている人物だ。
学生たちの間では、「単位を落とす確率」が計算できない唯一の教授、などと皮肉られている。
僕は深呼吸をして、重い鉄製のドアを叩いた。ノックの音が、やけに硬質に響く。
「入れ」
中から、不機嫌そうな低い男の声が聞こえた。
恐る恐るドアを開けると、そこは雑然とした「本の森」だった。
床から天井まで積み上げられた専門書と論文の山。埃っぽい古書の匂いと、微かな薬品の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。
その隙間に埋もれるようにして、田中教授は座っていた。
薄汚れた白衣を雑に着こなし、ボサボサの白髪頭をかきむしりながら、彼は眼鏡の奥で鋭い眼光を放っている。手元のホワイトボードには、僕には理解できない数式がびっしりと書き込まれていた。
「なんだね、相沢君。レポートの提出期限なら延ばさんぞ。君の事情など知ったことではない」
開口一番、牽制球を投げられた。視線すら合わせようとしない。
「いえ、今日は……もっと重要な話がありまして」
「重要? 私にとっての重要事項は、この数式の検証だけだ。それ以外は雑音に過ぎん。君の悩み相談に乗る暇はないんだ」
相変わらずの偏屈ぶりだ。だが、引き下がるわけにはいかない。
人の命がかかっているのだ。
僕は意を決して、ポケットから例のメモを取り出した。
絵里依の事件から3日。メモの内容は相変わらず不吉な予言を告げている。
インクは赤黒く変色し、まるで警告灯のように僕の目に焼き付いている。
『次の犠牲者は、3日後。君の大学の田中教授だ』
『死因は毒殺』
「先生。信じてもらえないかもしれませんが、先生の命が狙われています」
僕は単刀直入に切り出した。オブラートに包む余裕などない。
「はあ?」
教授は目を丸くし、数秒間ぽかんとしていたが、次の瞬間、盛大に吹き出した。
「ぶははは! なんだそれは。脅迫状か? にしては随分と手が込んでいるな。誰の悪戯だ?」
彼は笑い飛ばした。まるで出来の悪いジョークを聞かされた時のように。
「笑い事じゃありません! 3日後、つまり今日の昼食時、先生は食事に混入された毒で殺されるんです!」
僕は必死に訴えた。声に熱がこもる。机を両手で叩きつける勢いだ。
だが、教授は全く取り合おうとしない。興味を失ったように視線を書類に戻し、ボールペンの先でコツコツと机を叩き始めた。
「馬鹿馬鹿しい。科学を志す者が、予言だの未来だのといったオカルトを口にするとはな。失望したよ、相沢君。君はもう少しマシな頭をしていると思っていたが」
「でも、これは実際に……!」
「君、最近疲れているんじゃないかね? 暑さのせいか? 精神的に不安定なら、カウンセリングを受けることを勧めるよ。今日はもう帰りたまえ」
取りつく島もない。
研究室を追い出された僕は、廊下で立ち尽くした。
冷房の効いた廊下のはずなのに、背筋を流れる汗が止まらない。
やはり、普通に話しても信じてもらえるわけがない。相手はガチガチの唯物論者だ。目に見えるデータしか信じない人間だ。
だが、放っておくわけにはいかないのだ。
メモによれば、死因は毒殺。
そして犯人は、この研究室に出入りできる人間の中にいる。外部の人間が、セキュリティの厳しい研究棟に入り込み、教授の昼食に毒を盛るのは困難だ。
僕は廊下の自販機コーナーの影から、研究室の様子を窺うことにした。
出入りするのは、数人のゼミ生たち。
真面目そうな眼鏡をかけた男子学生。彼はいつも教授に怒鳴られている気弱そうなタイプだ。今日も大量のコピー用紙を抱えて走り回っている。
派手なメイクの女子学生。研究には不真面目そうだが、教授のお気に入りと噂されている。スマホをいじりながら楽しそうに笑っている。
そして、無口で暗い雰囲気の院生、木島。
彼は白衣を着て、薬品庫の鍵を腰にぶら下げている。薬品管理の責任者でもあり、教授の右腕とも言われている。
彼は一人だけ、何か異質な空気を纏っていた。
ビーカーを洗う手つきが、異常なほど丁寧で、機械的だ。周囲の会話には一切加わらず、ただ黙々と作業をしている。
その目は、感情の光を宿していなかった。冷たい硝子玉のようだ。
彼らの中に、教授を殺そうとしている人間がいるのか?
動機は? 研究のデータ改ざん? それとも日々のパワハラへの恨み? アカデミックハラスメントという言葉が頭をよぎる。
この閉鎖的な空間には、僕の知らない歪んだ人間関係が渦巻いているのかもしれない。
正午が近づく。
チャイムの音が遠くで聞こえた。
教授はいつも、学食の混雑を嫌い、愛妻弁当を研究室で食べるのが日課だそうだ。
もし毒が混入されるとしたら、その弁当か、あるいは飲み物か。
緊張で掌が汗ばむ。心臓の鼓動が早くなる。
説得が無理なら、実力行使に出るしかない。
たとえ教授に嫌われようとも、不審者扱いされようとも、死なせるよりはマシだ。
僕は腕時計を見た。
針は刻一刻と運命の時を刻んでいる。
12時5分前。タイムリミットが迫っている。




