終わらない悪夢
「くそっ……目が……!」
背後で鏡が呻いているのが聞こえる。防犯スプレーの唐辛子成分は強力だ。だが、長くは持たないだろう。あいつの回復力と執念は、僕の想像を超えているはずだ。
「こっちだ!」
まだ状況が飲み込めず呆然としている絵里依の手を強く引き、僕は倉庫街の路地へと走った。
足場が悪い。ゴミや瓦礫が散乱する暗闇の中を、転ばないように必死で駆ける。
腐敗した生ゴミの臭いと、湿ったカビの臭いが鼻をつく。
呼吸が苦しい。心臓が早鐘を打っている。
「はぁ、はぁ……湊、どういうこと? 鏡くんがどうして……」
「説明は後だ! とにかく今は逃げるんだ! あいつは本気だ!」
彼女の手は冷たく、そして小刻みに震えていた。
僕も恐怖で足がすくみそうだったが、彼女を守らなければという一心が、体を前へと突き動かしていた。
背後から、足音が近づいてくる。
タッタッタッ、と正確で、速いリズム。
鏡はすでに視界を回復して追ってきているのか? それとも、音だけで僕たちの位置を把握しているのか?
まるで獲物を追い詰める猟犬のような、容赦のない足音。
「逃げても無駄だよ、湊! この辺りの地理は僕の頭の中に全部入っている! 君たちが向かっているのは袋小路だ!」
狂気じみた声が反響する。
僕は舌打ちした。確かに、この倉庫街は迷路のようだ。
角を曲がると、そこは高いフェンスに阻まれた行き止まりだった。赤錆びた金網が、絶望的な壁となって立ちはだかる。
「しまっ……!」
振り返ると、路地の入り口に人影があった。街灯の逆光で、その表情は見えない。だが、手に持ったナイフだけが、ギラリと光っていた。
「チェックメイトだ」
ゆっくりと、鏡が姿を現す。
充血した目は涙を流しながらも、しっかりと僕たちを捉えていた。ナイフを弄ぶように持ち替えながら、彼はじりじりと距離を詰めてくる。
「残念だよ。君ならもう少し良いエンディングを見せてくれると期待していたのに。結局、カタルシスのないバッドエンドか」
彼はため息をつくように言った。まるで、つまらない映画を見せられた評論家のように。
ナイフが街灯の光を弾いて冷たく光る。
万事休すか。
僕は絵里依を背に庇い、覚悟を決めた。ここで僕が食い止めている間に、絵里依だけでも逃がせるか? いや、鏡の身体能力なら、僕を倒した後すぐに彼女に追いつくだろう。
誰かが犠牲にならなきゃいけないなら、僕が――。
その時だった。
ウゥゥゥゥ――!
サイレンの音が、夜空を引き裂いた。
パトカーのサイレンだ。しかも、一台じゃない。複数のサイレンが重なり合い、不協和音となって響き渡る。
赤色灯の光が、路地の壁を激しく照らし出し、闇を切り裂く。回転する赤い光が、鏡の顔を赤く染め上げた。
「なっ……!?」
鏡が初めて動揺を見せた。ナイフを持つ手が止まる。
「警察……? まさか、湊、君が呼んだのか?」
「……ああ。尾行を始める前にな」
僕はポケットからスマホを取り出し、録音アプリが停止している画面を見せた。
「ストーカーを捕まえた後、念のため通報しておいたんだ。『まだ共犯者がいるかもしれない』『友人がナイフを持っているのを見た』ってね。場所も伝えておいた。それから、さっきからの会話も全部録音させてもらったよ」
「……はは。僕を、最初から疑っていたのか?」
「疑いたくなかったよ! 親友だと思ってたからな!」
僕は叫んだ。声が裏返る。
「でも、メモの『犯人の名前がない』理由を考えた時、どう考えても一番しっくりくる答えがお前だったんだ。僕が心を許していて、いつでも隙を突ける相手。そして、未来の僕が『名前を書けなかった』相手」
警官たちがどやどやと駆け込んでくる。
「武器を捨てろ! 両手を上げろ!」
銃口を向けられ、鏡は数秒間、立ち尽くしていた。
彼の顔から、狂気の色がすうっと引いていく。残ったのは、憑き物が落ちたような、どこか虚無的な表情だった。
カラン、と乾いた音を立てて、ナイフがアスファルトに落ちた。
「……負けたよ。僕の計算違いだ。君は僕が思っていたより、ずっと優秀だったみたいだ」
警官に取り押さえられ、連行されていく際、彼は振り返って僕に笑いかけた。まるで、面白いゲームに負けた子供のように、純粋で残酷な笑みを。
「でも、証明されたわけじゃない。運命はまだ、君を逃がさないかもしれないよ」
その言葉が、呪いのように僕の耳に残った。
事件は終わった。
鏡は殺人未遂と銃刀法違反で逮捕された。
動機については「運命の可変性の検証」などと供述しており、精神鑑定が行われることになったという。
大学内は大騒ぎになった。天才学生の転落劇として、週刊誌にも小さく載った。
僕と絵里依は被害者として守られたが、好奇の目からは逃れられなかった。
数日後。
日常が戻ってきた。あるいは、戻ってきたふりをしていた。
絵里依はショックを受けていたが、今では平静を取り戻している。「幼馴染に殺されかけるなんて、小説のネタにもならないわ」と強がっていたが、その手はまだ震えていた。ふとした拍子に虚空を見つめる彼女を、僕は励まし続けた。
僕の手元にあるメモは、事件の翌日には文字が消え失せ、ただの白い紙切れに戻っていた。
やはり、あれは未来を変えるためのツールだったのだ。役目を終えて、ただの紙に戻った。
穏やかな朝。
蝉の声がうるさい夏の日。
僕はいつものように目覚め、大きくあくびをした。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
平和な日々が続くことを願いながら、枕元のスマホを取ろうとして――手が止まった。
そこには、またあった。
あの、見覚えのある白い紙切れが。
消えたはずの文字が、また浮かび上がっている。
インクが滲み、まるで血のように赤黒く変色しているようにも見えた。
「……嘘だろ」
震える手で拾い上げる。
歪んだ筆跡。僕自身の文字。
だが、今度は少しだけ、書き手が違うような違和感があった。より冷静で、より深く絶望しているような、そんな筆致。
『おめでとう。最初の試練はクリアだね』
『だが、これは始まりに過ぎない』
『次の犠牲者は、3日後。君の大学の田中教授だ』
『死因は毒殺』
目の前が暗くなる。
これは、一回きりの話じゃなかったのか?
僕は、見知らぬ誰かの死を予告され続ける運命にあるのか? まるで死神の代理人のように。
被害者は、僕の恩師である田中教授。
毒殺。またしても具体的な死因。
紙切れの最後には、前回にはなかった、奇妙な一文が添えられていた。
『追伸。ここで終わりだと思わないでほしい』
まるでゲームの進行を告げるようなメッセージ。
これは一回きりの話じゃなかったのか?
僕は、見知らぬ誰かの死を予告され続ける運命にあるのか? まるで死神の代理人のように。
戦いは、まだ終わっていなかったのだ。
僕は紙切れを握りつぶし、深く息を吐いた。胃の腑が熱くなるような怒りと、決意。
やってやる。
明日の自分が、そしてその先にいる「誰か」が、後悔しないために。
僕は再び、見えない敵との戦いに身を投じる覚悟を決めた。




