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裏切りの刻

 十九時二十八分。

 公園には、重苦しい静寂が支配していた。

 遠くの波音だけが、ザザァ、ザザァと不規則なリズムを刻んでいる。それはまるで、巨大な怪物の寝息のようにも聞こえた。

 海からの風が強まり、錆びた鉄の臭いと潮の香りを運んでくる。

 絵里依は疲れが出たのか、ベンチで黙り込んでいる。膝を抱えて俯く彼女の姿は、闇の中に溶けてしまいそうに小さく見えた。

 その肩は小刻みに震えている。恐怖と安堵が入り混じった複雑な感情が、彼女を支配しているのだろう。

 僕と鏡は、ベンチを挟むようにして立っている。まるで彼女を守る二体のガーゴイルのように。


「静かすぎるな」

 鏡がポツリと呟いた。

「ああ。ストーカーは捕まったはずなのに、嫌な気配が消えない」

「僕は少し、向こうの茂みも見てくる。死角があるのが気になるんだ。万が一、共犯者が潜んでいる可能性もゼロじゃない」

「分かった。こっちは任せてくれ」

 鏡は音もなく闇の中へ、公園の奥の植え込みの方へと消えていった。


 一人残された僕は、再びメモを取り出した。

 スマホのライトで照らす。

 何度見ても、内容は変わらない。

『今日の十九時三十分、港湾公園で絵里依が殺される』

『死因は刺殺。背後からの一突きだ。守れなかった。すまない』

『P.S. 天気予報は外れる。午後は雨になる』


 ……待てよ。

 僕はふと、鏡が喫茶店で言った言葉を思い出した。頭の中でリフレインする。

『書き殴ったような乱れ方だが、筆圧のムラを見る限り、利き手で書いている』

『精神的な動揺か、あるいは視界が制限されていたか』

『名前を書くことでタイムパラドックスによる不利益が生じるケース』


 視界が制限されていた。

 もし、そうじゃなかったら?

 もし、未来の僕が、「わざと」乱れた文字で書いたとしたら?

 いや、そんな余裕はないはずだ。死の間際にそんな小細工をする理由がない。

 じゃあ、なぜ?


 僕の脳裏に、ある仮説が閃いた。電流が走るような、不吉な閃き。

 犯人の名前を書かなかった理由。

 それは、「書けなかった」のではなく、「書いてはいけなかった」からだとしたら?

 もし、このメモを書いている時、すぐ傍に「犯人」がいたとしたら?

 犯人に、「遺書を書け」と強要されていたとしたら?

 あるいは、「過去の自分への警告を書け。ただし、俺の名前は出すな。名指しした瞬間、即座にお前を殺す」と脅されていたとしたら?


 未来の僕は、犯人の監視下にあった。

 だから、あえて乱れた文字で、恐怖に怯えるふりをしながら、ギリギリの情報を記した。

 そして、犯人はそれを許可した。

 なぜなら、犯人は「過去が変わるわけがない」と高を括っているか、あるいは「このゲームを楽しんでいる」からだ。


 そんな狂ったことが出来る人間。

 僕の筆跡を真似て偽造したと思われないよう、あえて本人に書かせた人間。

 そして今、この場所にいて、状況をすべて把握している人間。

 ストーカーが現れるタイミングも、僕たちの動きも、全てを知っていた人間。

 ……そういえば、さっきのストーカーを取り押さえる時、鏡は妙に手際が良すぎなかったか?

 あいつがナイフを取り出すタイミングを、まるで知っていたかのように。


「……まさか」


 背筋が凍りつく。

 血液が冷たい泥に変わっていくような感覚。

 十九時三十分。

 スマホの時計が、運命の数字を表示した。

 その時、背後の植え込みからカサリと音がした。

 風の音じゃない。何かが踏み潰される音。

 僕は振り返らない。

 ただ、静かにそう呼びかけた。声が震えないように、腹に力を入れて。


「そこにいるんだろ、鏡」


 沈黙があった。

 数秒が、永遠のように長く感じられた。

 やがて、クスクスという低い笑い声が聞こえてきた。心底おかしそうに、楽しげに。


「……気づいたかい? 意外だな。君にそこまでの洞察力があるとは思わなかったよ」


 振り返ると、そこには鏡が立っていた。

 さっきまでの頼れる親友の顔は、そこにはなかった。

 右手には、月明かりを反射する鋭いサバイバルナイフが握られている。

 その表情は、冷たく、昏く、どこか楽しげな、狂気の色を宿していた。

 眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められている。


「どうしてだ、鏡! お前は、僕の友達だろう!」

「友達? ああ、そうだよ。だからこそ、君を使って確かめたかったんだ」

 鏡は一歩ずつ近づいてくる。足音すら立てずに。

「君がそのメモを見せた時、僕は震えたよ。タイムパラドックス! 因果律の逆転! こんなに素晴らしい実験材料はない。だから確かめることにしたんだ。決定された未来である『絵里依さんの死』を、観測者である君が変えられるのかどうか」

「実験……だと? 人の命だぞ!」

「科学の進歩には犠牲が付き物さ。それに、君にはチャンスを与えたじゃないか。僕という『犯人』を一番近くに置いておきながら、君はまんまと騙され、ストーカーという偽の解答に飛びついた。がっかりさせないでくれよ、湊」


 鏡の切っ先が、眠る絵里依に向けられる。

「彼女はいいモルモットだったよ。僕が少し情報を流すだけで、ストーカーを誘き寄せることができた」

 彼は本気だ。

 人を人とも思わない、純粋すぎる知的好奇心の塊。

 それが、僕が天才だと尊敬していた男の正体だったのか。

 友情も、信頼も、彼にとっては実験の変数の一つに過ぎないのか。


「さあ、実験の仕上げだ。十九時三十分。定刻通りに執行する」

 彼は迷いなくナイフを振り上げた。

 僕は動けない――わけがなかった。

 予測していた。こいつなら、平然と友人を切り捨てるかもしれないと。


「ふざけるな!」


 僕はポケットに隠し持っていた『あるもの』を構えた。

 それは、さっきコンビニで買っておいた、防犯スプレーだ。

 ストーカー対策として買ったものだが、まさか親友に使うことになるとは。

 鏡の顔面に向けて、迷わず噴射する。

 高濃度のトウガラシ成分が、彼の視界を奪う。

「ぐああっ!? 目が……!」

 想定外の反撃に、鏡が怯む。

 その隙に、僕は絵里依を抱えて転がった。

「起きろ、絵里依! 逃げるんだ!」

 僕の叫び声に、絵里依がようやく目を覚ます。

 目の前には、苦悶の表情を浮かべる鏡と、抜き身のナイフ。

 状況を理解できずにパニックになる彼女の手を引き、僕は走り出した。

 背後から、獣のような咆哮が聞こえた気がした。


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