第2話 思い出したくなかったけど、思い出した。
まぶたの裏が、ぼんやりと明るい。
暗闇の底から、ゆっくりと浮かび上がってくる感覚。
水の中から顔を出す直前みたいに、意識が重く、鈍い。
重たい。
頭も、身体も、とにかく重い。
自分のものじゃないみたいに、思うように動かない。
けれど、さっきまで全身を焼いていたような熱は、少しだけ引いている気がした。
代わりに残っているのは、だるさと、鈍い痛み。
私はゆっくりと、意識の底から浮かび上がる。
まぶたを動かそうとした。
錆びついた機械を無理やり動かすみたいに、ぎこちなく。
ぺたり、と何かがまつ毛に張り付く感覚。
涙だろうか。
それを振り払うようにして、ようやく私は目を開けた。
そこにあったのは、見慣れない天井だった。
白――というより、やわらかなクリーム色。
木枠に囲まれた天井は、どこか古風で、落ち着いた雰囲気がある。
視界の端で、薄い布が揺れている。
風に揺れるたびに、柔らかな影が落ちる。
天蓋付きのベッド。
しかも、やたらと装飾が細かい。
病院じゃない。
少なくとも、私が知っているどの病室とも違う。
「……どこ、ここ」
掠れた声が、喉から落ちた。
自分の声なのに、妙に高くて、軽い。
違和感が、じわじわと広がる。
「アーシャ様!?」
すぐ横で、誰かが息を呑んだ。
視線をそちらに向けると、涙で目を真っ赤に腫らした女性が立ち上がるところだった。
二十代半ばくらい。
栗色の髪を後ろでまとめ、黒と白のメイド服を着ている。
いかにもそれとわかる服装。
……いや、ちょっと待って。
何この、ゲームやマンガとかでしか見ないやつ。
「よかった……! お目覚めになられたのですね……!」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、私の手をぎゅっと握った。
その瞬間、違和感がはっきりと形になる。
小さい。
彼女の手がじゃない。
――私の手が。
指も、手のひらも、明らかに子どものそれだった。
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
「ちょっ……え?」
「ここ、どこですか」
「私、病院じゃ……」
言葉が自然と早くなる。
「びょういん……?」
メイドは首を傾げる。
「ここはビルカイン公爵家の本邸でございます。アーシャ様のお部屋です」
ビルカイン。
その名前を聞いた瞬間、妙な違和感が走った。
知らないはずなのに、どこか引っかかる。
思い出せそうで、思い出せない。
その曖昧さが、気持ち悪い。
同時に、頭の奥に鈍い痛みが走った。
断片が浮かぶ。
冷たい水。
誰かの悲鳴。
「アーシャ様」と呼ぶ声。
そして。
――夢を見れたんだから、いいじゃないですか。
あの声。
駅前の雑踏。
ショッピングモール。
笑っている男。
隣にいる、知らない女。
視界が歪む。
タイヤの音。
足元の感覚が消える。
地面。
衝撃。
そこで、ぷつりと切れている。
――私、死んだんじゃなかったっけ。
喉が締まる。
「み、ねぎし……」
舌がうまく回らない。
「わたし……峰岸、愛で……」
「みねぎし……?」
メイドは困った顔をする。
「アーシャ様は、アーシャルマ・ビルカイン様にございます」
アーシャルマ・ビルカイン。
その名前を聞いた瞬間だった。
頭の奥で、何かが“かちり”と噛み合った。
ばらばらだった記憶が、一気に繋がる。
違和感が、形を持つ。
――そうだ。
私は、この名前を知っている。
ただ知っているんじゃない。
覚えている。
読んだことがある。
ずっと昔。
仕事に追われる前、まだ少しだけ余裕があった頃。
電車の中で、何気なく読んだ一冊。
タイトルは、思い出せない。
でも、内容は覚えている。
ヒロインとヒーローがいて。
恋をして。
障害があって。
その途中で、ひとりの令嬢が死ぬ。
物語を盛り上げるために。
ただ、それだけの理由で。
そうだ、思い出した。
あのとき読んだ小説。
その中に出てきた名前だ。
アーシャルマ・ビルカイン。
ヒロインでもない。
悪役でもない。
ただ、死ぬ役の人。
それが、今の私。
まさか。
いやいやいや。
そんなベタな展開、あるわけないでしょ。
頭ではそう思うのに、否定の言葉が空回りする。
だってこれは、『知らない記憶』じゃない。
思い出しただけだ。
最初から、自分の中にあったもの。
それが今、繋がっただけ。
私は震える手で、自分の髪に触れた。
さらり、と指の間を滑る。
黒じゃない。
少し柔らかくて、軽い。
視線を落とす。
細い腕。
幼い身体。
どう見ても、十歳前後。
体を起こそうとした瞬間、メイドが慌てて止めた。
「アーシャ様! まだお身体が!」
「一週間も高熱で寝込んでおられたのですから!」
「……一週間」
時間の感覚が噛み合わない。
私は死んだはずなのに、ここでは一週間寝ていたらしい。
「池に落ちたと聞いたときには……!」
池。
冷たい水。
さっき感じた感覚と一致する。
現実が、じわじわと輪郭を持つ。
夢じゃない。
全部、現実だ。
触れられる。
呼吸できる。
痛みもある。
生きている。
その事実が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
怖い。
でも、それ以上に。
安心した。
生きている。
それだけで、十分だった。
――だったら。
二度目は、失敗しない。
胸の奥で、何かが静かに固まる。
私は、一度死んだ。
でも、終わっていない。
これは続きだ。
誰かの人生じゃない。
私の、続き。
枕に沈んでいた頭を、ゆっくり持ち上げる。
「……ねえ」
「はい、アーシャ様」
「お水、もらえる?」
まずは、生きること。
全部は、その後でいい。
メイドはぱっと顔を明るくして、部屋を飛び出していった。
その背中を見送りながら、私は天井を見上げる。
峰岸愛は、死んだ。
それは事実だ。
でも。
私は、まだ終わっていない。
死にたくない。
今度こそ、本気でそう思った。
――どうやら、また忙しくなりそうね。
心の中で苦笑する。
十歳の身体。
三十四歳の中身。
元・仕事の鬼。
次の現場は、どうやら異世界らしい。
男?
運命の恋?
そんなもの、知るか。
私は絶対に、今度こそ。
自分の力で、生き延びてみせる。




