第1話 私、騙されて死にました。
その日も、私はいつものように終電を逃した。
夕方から続く確認依頼は、夜になっても途切れない。
「峰岸さん、判断お願いします」
「これ、どう回しますか?」
デスクの上には、飲みかけのペットボトルと、冷え切ったコンビニのおにぎりの袋。
モニターには、終わりの見えない仕様書とエラーログ。
開発部・課長補佐、峰岸愛三十四歳。
社内でのあだ名は「仕事の鬼」。
……あのね、鬼って言うなら残業代くらいもっとちゃんと出しなさいよ、って話なんだけど。
「峰岸さん、そろそろ帰ったほうが……」
おずおずと声を掛けてきたのは、入って二年目の後輩くんだ。
「このバグ潰したら帰る」
「それ、さっきも聞きましたよ」
「デジャヴね。大丈夫、今度こそラストスパートだから」
私はキーボードを叩きながら答えた。
本当は大丈夫なんかじゃない。
眠いし、腰は痛いし、目もしみる。
でも、誰かがやらないと終わらない。
だったら、私がやるしかない。
仕事は、シンプルだ。
ミスはする。
でも、リカバリーすればいい。
原因を潰して、再設計して、立て直す。
それを繰り返してきたから、今の私がある。
そのやり方は、いつの間にか仕事以外にも染みついていた。
気がつけば、気づかないふりをする技術ばかり上達していた。
同僚たちが結婚しただの、子どもが生まれただの、幸せな報告をしてきても、笑って「おめでとうございます」と言える技術。
そのたびに、自分の財布の中身と、有休残数と、老後資金の計算を始める癖も、すっかり板についた。
恋愛?
そんなの、ドラマの中か、ソシャゲのイベントくらいで十分だと思っていた。
――あの日、彼に出会うまでは。
彼と出会ったのは、会社の打ち上げだった。
大きなプロジェクトがひとまずリリースまで漕ぎ着けて、部長が珍しく「今日はパーッと行くぞ!」なんて景気のいいことを言い出したのだ。
焼き肉屋の煙がもうもうと立ち込める中、私たちは肉を焼きながら、珍しく仕事以外の話をした。
その席に、たまたま取引先の人間として同席していたのが――彼だった。
黒縁の眼鏡に、整った目元。
笑うと、瞳が少し細くなって、柔らかい印象になる。
スーツは決してブランド物ではないはずなのに、よく似合っていた。
きっと、どこにでもいそうで、どこにもいないタイプの“優しそうな人”。
「峰岸さんですよね。先日、仕様の確認で電話もらった」
「あ……はい。お世話になってます」
「いえいえ、いつも丁寧に対応していただいて。正直、あの量をこのスケジュールで回してるの、すごいなって思ってました」
さらっと、そんなことを言う。
褒められ慣れていない三十四歳独身、仕事の鬼。
その一言で、簡単に心の防御力を削られてしまう。
「……仕事ですから」
精一杯、そっけなく返したつもりだった。
なのに彼は、「そういうところ、カッコいいと思いますよ」とか言って、笑った。
ずるい。
そんなの、ずるいに決まってるじゃない。
それから先のことは、正直、あっという間だった。
仕事帰りに何度か食事に行き、映画を見に行き、休日に待ち合わせをするようになって。
私のスマホには、初めて「恋人」と呼べる相手からのメッセージが表示されるようになった。
『ちゃんと食べてますか?』
『今日も遅いんですか? 無理しないでくださいね』
『落ち着いたら、温泉とか行きたいですね』
その一つ一つが、胸の奥でぽっと灯りをともすみたいに暖かかった。
十数年間、仕事だけを見て走ってきた私の世界に、彼は突然色をつけてしまったのだ。
もちろん、気づいている。
今思えば、ところどころおかしかった。
割り勘を申し出ても、最初は「ここは僕が」と笑っていたのに、いつの間にか「今月ちょっと厳しくて……」と言うことが増えていた。
『前の会社の清算がまだ残ってて』
『親の入院費がかさんでいて』
そう言われるたびに、私の財布は少しずつ軽くなった。
「仕事の鬼」とまで言われている私が、金の管理くらいできないわけがない。
頭のどこかで、警鐘は鳴っていた。
判断を誤っていると分かっていた。
……なのに、見なかったことにした。
だって、彼は私を「頑張ってる」「偉い」と言ってくれた。
誰も口にしなかった言葉を、笑いながらくれた。
私はそれが、どうしても、欲しかったのだ。
そして、ある日。
指輪を渡された。
「愛さんと、ちゃんと将来の話がしたいです」
小さなケースをぱちんと開けて、彼は照れくさそうに笑った。
どこかの量販店で買ったに違いない、決して高くはない指輪。
それでも私には、まぶしくて仕方がなかった。
ああ、これでやっと、私も『普通の幸せ』を手に入れられるんだ――。
そう信じてしまったのは、きっと私の弱さだ。
誰かを責める前に、自分の愚かさを笑いたくなる。
◆ ◆ ◆
その日、私は珍しく仕事が定時で終わった。
プロジェクトの区切りがついて、有休を取ることもできた。
昼過ぎから美容室に行って、癖の強い髪をどうにか落ち着かせてもらう。
メイクも少しだけ頑張って、クローゼットの奥に眠っていたワンピースを引っ張り出した。
鏡の前に立って、自分をまじまじと見る。
「……頑張れば、まだ戦えるじゃない」
誰に聞かせるでもなくつぶやいて、私は笑った。
待ち合わせ場所は、駅前の大きなショッピングモールの前。
「今日はちゃんと話をしよう」と彼は言っていた。
将来のこと。
一緒に住む場所のこと。
仕事を続けるかどうか。
頭の中で何度もシミュレーションして、私は駅までの道を歩いた。
少し早く着きすぎたので、近くのベンチに座ってスマホを眺める。
『すぐ着きます』
彼からのメッセージを確認して、私は胸の鼓動を落ち着けようと深呼吸をした。
そのときだった。
人混みの向こう側、聞き慣れた笑い声が耳に入った。
顔を上げる。
ショッピングモールの入口近く。
彼がいた。
私の『婚約者』が、そこに立っていた。
誰かの手を握って。
彼の隣で笑っているのは、見知らぬ若い女の子だった。
二十代前半だろうか。
ふわっとしたワンピースを着て、彼の肩にもたれるように寄り添っている。
「ねえ、本当に買ってくれるの?」
「もちろん。君には似合うと思ってるから」
彼は優しい声で答え、ショーウィンドウの中のアクセサリーを指差した。
その横顔は、私のよく知っている『恋人の顔』だった。
頭の中が、真っ白になった。
嘘でしょ。
だって、今日は――私と会う約束の日で。
指輪のサイズをしっかり測ってきてほしいって、昨日メッセージをくれたのは、他ならぬあなただったはずで。
足が勝手に動いた。
気づいたときには、私は二人の前に立っていた。
彼の目が、驚いたように見開かれる。
「……愛、さん?」
ああ、その呼び方。
彼だけが使う、少し甘えた呼び方。
私の胸の奥で、大事にしまっていた何かが、ひび割れる音がした。
「どういうこと、ですか」
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
「その人は、誰?」
隣の女の子が怪訝そうに眉をひそめる。
「誰、この人」
「えっと……知り合い、かな」
彼は苦笑いを浮かべて、私から視線をそらした。
その仕草が、何よりの答えだった。
「知り合い、ね」
喉の奥が焼けつくように熱い。
肺に取り込んだ空気が、重くてうまく呼吸ができない。
「私、あなたの『婚約者』だと思ってたんだけど」
周囲の人々が、ちらちらとこちらを見始める。
ざわめきと視線。その全部が、皮膚に突き刺さるみたいに痛かった。
彼は一瞬だけ黙り込んでから、ため息混じりに笑った。
「……愛さん、さ。大人なんだから、わかってくれてると思ってたんだけど」
嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。
「何を、ですか」
「夢を見れたんだから、いいじゃないですか」
時間が、止まった。
夢。
そう、夢。
それは、彼と過ごした日々全部を指しているのだと、言葉の続きなんて聞かなくても理解できてしまった。
「僕と一緒にいて、楽しかったでしょ?誰かに必要とされてるって、感じられたでしょ?」
「……っ」
「だったら、それで十分じゃないですか。お金だって、ちゃんと使える相手に使えて、よかったと思いません?」
『ご利用ありがとうございました』とでも言いたげな笑顔。
その瞬間、頭の中で何かがぷつんと切れた。
ああ、この男は。
私が死ぬほど大事に抱きしめていたものを、全部、ただの『夢』だったと言い捨てた。
恥ずかしさと怒りと悔しさと。
いろんな感情がごちゃまぜになって、胸のあたりで渦を巻く。
「ふざけないでよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「私の貯金、どれだけ渡したと思ってるの」
「そんなに大した金額じゃ――」
その言葉を最後まで聞く前に、私は彼の胸ぐらを掴もうとして、一歩踏み込んだ。
そのときだ。
彼が、反射的に後ろに下がった。
私はヒールのかかとを何かに引っ掛けて、バランスを崩す。
視界が、ぐらりと傾いた。
背中に空気の冷たさ。
耳元で誰かの悲鳴。
――あ、これ、やばい。
考えるより先に、後頭部に硬い衝撃が走った。
路面。
そのすぐ横を、タイヤの音がかすめて――
頭の中が、真っ白になった。
痛みと、音と、光が、一瞬で遠ざかっていく。
世界の輪郭がぼやけて、色が抜けていく。
嫌だ。
こんな終わり方、嫌だ。
仕事だって、まだ途中だし。
システムの仕様書も、あのバグだって潰し切れてない。
老後資金の計算だって、まだ途中。
何より――
こんなくだらない男に、私の人生の終わりを定義されるなんて、絶対に嫌だ。
死にたくない。
本気で、心の底から、そう思った。
◆ ◆ ◆
闇の中を、沈んでいく感覚があった。
冷たい水の底に、ゆっくりと落ちていくみたいな感覚。
……水?
全身を包む冷たさに、私はびくりと震えた。
目を開けようとしても、何も見えない。
肺に水が入り込んでくるような、息苦しさ。
誰かが、遠くで叫んでいる声が聞こえた。
「アーシャ様!」
「誰か! 早く!」
アーシャ。
誰、それ。
手を伸ばそうとして、伸ばせなかった。
指先の感覚が、自分のものじゃないみたいにぼやけている。
喉の奥に、熱いものがせり上がった。
息ができない。
苦しい。
――また、死ぬの?
必死に足掻こうとしたけれど、身体は重くて、思うように動かなかった。
冷たさと、苦しさと、遠くの叫び声。
全部が渦を巻いて、私を飲み込んでいく。
ふっと、何かが切れた。
冷たさが、急に遠ざかる。
代わりに、焼けつくような熱が全身を駆け巡った。
今度は、燃えているみたいに熱い。
額も、胸も、喉も、息をするだけで痛い。
「お嬢様!」「アーシャ様、しっかり!」
誰かの手が額に触れる感触。
布のこすれる音。
薬草のような、どこか懐かしい匂い。
私は何度も名前を呼ばれている気がしたけれど、その名前は、私の知っているものじゃなかった。
やがて、熱すぎる世界さえも、少しずつ遠のいていく。
意識は浮き沈みを繰り返しながら、暗闇の底と、熱の海の間を漂った。
時間の感覚は、とうに失われていた。




