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幻影のアーキテクト  作者: 靴下を履いた猫
第一章 『残響のエントロピー』
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第一章02 「受難」

午後の説明会まで、あと2時間。

陽介は時計を見ながら、胸の奥にある不安の塊がゆっくりと大きくなっていくのを感じていた。

陽介はオフィスの窓から見える中庭を眺めながら、この会社で過ごした5年間を振り返っていた。

アクティバ・テクノロジーは従業員数約400名の中堅製造業で、主力製品は産業用センサー技術だった。創業から45年、堅実な経営で業界内では一定の評価を得ている。

特に陽介たち開発部が手がけた次世代環境センサーシリーズは、精度と耐久性の両面で競合他社を上回る性能を実現していた。

アクティバ・テクノロジーの社風はほのぼのとした温かみがあった。

社長の田島は技術者出身で、現場の声を大切にする人だった。月に一度の全社会議では、各部署の成果や課題を率直に話し合い、改善策を全員で考える。そんな風通しの良さが、この会社の最大の魅力でもあった。

陽介が最も誇りに思っているのは、3年前に開発したスマート農業向けの土壌分析センサーだった。従来品より30%小型化に成功し、かつコストを20%削減。地方の農家でも導入しやすい価格を実現したこの製品は、業界紙で特集を組まれるほど注目を集めた。


「あのセンサー、今でも売れ行き好調ですよね。」三浦が思い出したように言った。

「山崎さんが夜遅くまで残って、回路設計を何度も見直していたの覚えています。」


「君も付き合ってくれたじゃないか。データの解析作業、本当に助かった。」


二人は束の間、温かい思い出に浸った。しかし、それも長くは続かない。

現実は、その思い出の場所が今、得体の知れない力によって変化しようとしているのだ。


「でも、どうして急に投資ファンドが来たんでしょう?」三浦の声に困惑が滲んだ。

「確かに最近は新規受注が減っていましたけど、そこまで深刻だったんでしょうか。」


陽介も同じ疑問を抱いていた。ここ1年ほど、確かに売上は伸び悩んでいた。

大手メーカーからの受注が減り、競合他社との価格競争も激化していた。しかし、技術力では決して負けていない。新製品の開発も順調に進んでいるし、特許も複数取得している。


「もしかすると、僕らが知らないところで、もっと大きな問題があったのかもしれない。」


陽介の脳裏に、先月の全社会議での田島社長の表情が浮かんだ。

いつもの穏やかな笑顔の奥に、何か重いものを抱えているような影があった。あの時は気にも留めなかったが、今思えば何かの前兆だったのかもしれない。


「田島社長は、午後の説明会に出席されるんでしょうか。」三浦がつぶやいた。


「わからない。でも、重要な話なら、きっと何かコメントがあるはずだ。」


田島社長は、この会社を一代で築き上げた人物だった。技術への情熱と、社員への深い愛情を持つ経営者として、陽介は心から尊敬していた。その田島社長が、なぜ投資ファンドの人を会社に招いたのか。

そこには、きっと陽介たちには見えない深刻な事情があるに違いない。


午後2時。大会議室には本社の全社員が集められていた。それ以外の拠点の社員はオンラインでの参加となる。

普段なら和やかな雰囲気が漂うこの空間が、今日は緊張で満ちている。陽介は三浦の隣に座り、前方のスクリーンを見つめていた。


「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。」


小野寺が演台に立った。午前中より自信に満ちた表情を見せている。


「改めて自己紹介させていただきます。私は小野寺裕也と申します。セントリウム・キャピタルの取締役として、この度のアクティバ・テクノロジーの買収を担当しております。」


会場内に大きなざわめきが起こった。ついに、その言葉が発せられた。「()()」。


「そして、こちらが斉藤玲奈さん。経営コンサルタントとして、私と共に今後の経営戦略をサポートしてくださいます。」

小野寺の隣に、黒いスーツに身を包んだ女性が立った。斉藤玲奈は無表情のまま軽く会釈した。

長いストレートの黒髪がきちんとまとめられており、無駄がない印象。

端正な顔立ちで、彫りの深い目元が知的で冷静な印象を際立たせている。

その冷徹な視線が会場を一瞥すると、陽介は背筋に冷たいものを感じた。


「アクティバ・テクノロジーは昨日付でセントリウム・キャピタルの完全子会社となりました。まず、皆さんにご安心いただきたいのは、セントリウム・キャピタルによる完全買収により、皆さんの雇用が脅かされることはございません。」


小野寺の声は会場全体に響いた。


「むしろ、より大きな資本と専門知識をバックに、アクティバ・テクノロジーは新たな成長段階に入ることができるのです。」


スクリーンに業績予想のグラフが映し出された。右肩上がりの美しい曲線が描かれている。


「そして本日、新たな展開をお知らせいたします。」小野寺が一呼吸置いた。

「セントリウム・キャピタルは、戦略的パートナーシップの一環として、アクティバ・テクノロジーの株式15%をオーグメンタ社に譲渡いたします。」


会場内に大きなざわめきが起こった。陽介は目を見開いた。

オーグメンタ。アクティバ・テクノロジーの競合で業界1位のシェアを誇っている。

技術力は高いが、やや攻撃的な経営で知られている会社だった。


「この株式譲渡により、オーグメンタ社から取締役副社長として神谷英明氏が派遣され、より効率的な経営体制を構築していきます。両社の技術とノウハウを融合させることで、従来では不可能だった大型プロジェクトへの参画も可能になるでしょう。」


陽介は眉を寄せた。ファンドが完全買収した直後に、競合他社に株式を売却?それも役員の派遣まで受けるとは。ファンドによる買収は理解できるが、なぜそこに直接の競合相手が株主として入ってくるのか。どこか腑に落ちない話だった。

しばらく沈黙が続いた後、営業部の田中が手を挙げた。


「既存の取引先との関係はどうなるのでしょうか?」


「もちろん継続します。」小野寺は即座に答えた。

「ただし、より効率的な取引条件への見直しは行う予定です。」


「効率的な、というのは…?」


「無駄なコストを削減し、利益率を向上させるということです。詳細は後日、個別にご説明します。」


陽介は不安を感じた。「効率的」「コスト削減」といった言葉は、往々にして人員削減や待遇悪化の前触れだった。


「他にご質問は?」


今度は陽介が手を挙げた。


「開発部門の自主性はどの程度保たれるのでしょうか?私たちは長年かけて培ってきた技術とノウハウがあります。」


小野寺の目が一瞬鋭くなったが、すぐに笑顔に戻った。


「山崎さんでしたね。もちろん、皆さんの専門性は最大限尊重します。ただし、市場のニーズにより迅速に対応するため、開発の方向性については戦略的な調整を行う場合があります。」


抽象的な答えだった。陽介は食い下がろうとしたが、小野寺が話を続けた。


「それでは、具体的な今後のスケジュールについて、斉藤さんからご説明いたします。」


斉藤が演台に進み出た。その動きは機械的で、感情の起伏が全く感じられない。


「皆様、今後3ヶ月間で段階的な組織改革を実施いたします。」斉藤の声は低く、会場に響いた。

「まず第一段階として、各部門の業務効率化を図ります。具体的には、重複業務の整理と人員配置の最適化です。」


陽介の胸に嫌な予感が広がった。人員配置の最適化。それは確実にリストラを意味していた。


「第二段階では、オーグメンタ社との技術統合を進めます。両社の強みを生かし、より競争力のある製品開発を目指します。神谷副社長の指揮の下、技術部門の再編を行う予定です。」


陽介の胸に不安が広がった。技術統合。それは自分たちの技術が競合他社に渡ることを意味するのではないか。


「第三段階では、新しい企業文化の構築です。より機動的で効率的な組織へと変革を図ります。」


斉藤の説明は論理的で隙がなかった。

しかし、その内容は陽介たちが大切にしてきた「アクティバ・テクノロジー」らしさを根本から変えてしまうものだった。特に、競合他社であるオーグメンタとの技術統合という部分が、陽介には最も受け入れ難いものに感じられた。

会場内の空気がさらに重くなった。神谷英明という名前が、新たな脅威として陽介の心に響いた。


「なお、来週より個別面談を実施いたします。皆様の今後の役割について、詳細にお話しさせていただく予定です。」


個別面談。それは査定であり、選別の始まりを意味していた。


「以上で説明を終わります。ご質問があれば後日個別にお受けします。」


小野寺が再び演台に立った。


「皆さん、変化を恐れる必要はありません。これは成長のための必要なプロセスです。私たちと共に、新しいアクティバ・テクノロジーを築き上げていきましょう。」


拍手は疎らだった。

説明会が終わり、社員たちは重い足取りで会議室を後にした。陽介と三浦も無言で席を立った。


「山崎さん…」


三浦の声は震えていた。


「大丈夫。まだ何も決まったわけじゃない。」


陽介はそう言ったが、自分自身も不安で胸がいっぱいだった。

廊下で中村部長とすれ違った。部長の表情は朝よりもさらに沈んでいた。


「部長…」


「山崎くん、君たちは動揺しないでくれ。」中村は小声で言った。

「まだ様子を見る段階だ。今は普段通り仕事を続けよう。」


しかし陽介には、もう普段通りには戻れないような気がしていた。

夕方、デスクに戻った陽介は、パソコンの画面を見つめながら考え込んだ。この5年間で積み重ねてきたものが、一日で崩れ去ろうとしている。

セントリウム・キャピタル。小野寺裕也。斉藤玲奈。そして神谷英明。

新しい名前たちが、彼の世界に侵入してきた。そして、それらがもたらすものが、果たして本当に「成長」なのかどうか。

陽介の心に、小さな疑念の種が芽生え始めていた。


――これは、本当に会社のためなのだろうか?


外は既に暗くなり始めていた。いつもなら同僚たちと軽い飲み会でもしている時間だが、今日はそんな雰囲気ではなかった。

陽介は静かに席を立ち、いつもより早く会社を後にした。

明日からは、きっと今日とは違う朝が始まるのだろう。

そんな予感を抱きながら、陽介は夜の街に消えていった。

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