プロローグ 「微熱」
――いつもと同じ朝だった。はずだった。
駅から続く人の波を抜け出し、少し湿ったビルのエントランスに足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつくような冷気を感じた。それはエアコンの風とは違い、無機質でどこか生気を吸い取るような寒さだった。普段なら感じないそのわずかな違和感に、足を止めて辺りを見回したが、そこにはいつものオフィスビルの光景が広がるだけだった。
しかし、なぜか目に映る風景が少しだけ遠くに感じる。
それは、普段の平穏とは相容れない、不穏な兆しを告げるものだった。
上着の内ポケットからスマホを取り出しロック画面をちらっと見る。いつも通りの時間。
エレベーターのボタンを押す。これも日課のひとつだ。だが、何かが違う。
目の前の鉄の扉がまるで別の次元へと繋がっているかのような錯覚に、胸の奥がざわめく。鉄の箱に無言のまま吸い込まれると、その違和感が胸の奥に小さな鈍痛となって広がった。
スマホを見て気を紛らわせようとするが、それは消えてくれない。
その理由を言葉にすることはできなかったが、心のどこかで「今日は何かが違う」と胸の奥に薄暗い霧が立ち込めるような感覚が広がり、何かが静かに軋む音が聞こえた気がした。
――ああ、これなんだろう?
「あ、山崎さん、おはようございます。」
オフィスの従業員通用口で、同じ開発チームの三浦彩花が明るい声をかけてきた。
「おはよう」
陽介は軽くあいさつと会釈を返しながら目をやると、そこには見慣れないロゴが浮かび上がるように貼られた小さな看板が目に入った。
光沢のある黒い背景に刻まれた「セントリウム・キャピタル」という文字は、奇妙なほど無機質で冷たく感じられた。
「セントリウム・キャピタル……?」
陽介は思わず声に出したが、その名前にはまったく覚えがなかった。視線を移すと、入口横には同じ社名が記されたポスターが掲げられていた。そこには、整然としたフォントで「ともに未来を切り拓く、最高のパートナー」と記されている。しかし、その言葉の背後に何か見えない圧力を感じ、陽介の喉が無意識に乾いた。
ロゴのデザインやポスターの配置にどこか計算されたような意図を感じる一方で、全体には説明のつかない不協和音が漂っていた。それは、日常の風景に巧妙に紛れ込んだ違和感のようで、陽介の胸に小さな棘を残した。
「これ何…?っていうか、いつから?」と三浦に尋ねようとした瞬間、背後から低い声が飛んできた。
「山崎さんですね?これからよろしくお願いします。」
不意に背後から声がかかり、陽介は一瞬、息を呑んだ。振り返ると、スーツを隙なく着こなした男が立っていた。目の奥には冷徹さが垣間見える。その視線に一瞬、足がすくむような感覚を覚えた。
差し出された名刺には、「セントリウム・キャピタル」のロゴと「取締役 小野寺裕也」という肩書と名前がきっちりとしたフォントで印刷されている。名刺自体には特段の違和感はない。だが、その手渡し方はどこか機械的で、丁寧さの中にも人間味が希薄だった。
「…よろしくお願いします。」
形式的な挨拶を返しながら、陽介は無意識のうちに手渡された名刺の硬さを感じていた。
その瞬間、何か大きな歯車が音を立てて動き出したのだと、陽介は悟った。
そして、その中心には自分の勤める会社がある。
日常は静かに変化し始めていた――