トゥリー湖
ここお話から新章かな?
俺は飯山健夫。68歳の個人タクシーのドライバーだ。
中野林市を通るローカル鉄道、山津川線、その狭いアンダーパスを潜っていたらこっちの世界に来てしまった。
以来、森から飛び出して来たクレアという少女とあちこち見て回っている。
北はエンスローという大きな街まで行って来た。
ボコボコに傷んだ道を何故かタクシーが覚えた?「リペア」で修繕しながら。
で、今度は南に行ってみようかというところ。
俺たちの本拠地、ヨクレールから街道を下って右手に見えるヤマニ村は、家の数が40軒程度の小さな村だった。
その先の分かれ道はクレアも聞いたことがないらしい。
北の王都から下って来て、ヨクレールに流れ着いたというんだからそんなものだろう。
東に行く道と南西へ更に下る道を見て俺は南西を選んだ。
理由なんかないさ。
曲がると損したような気がするってだけだ。
それに南には海があるって話だし、見ておきたいじゃないか。
そう決めて進んだ先では人通りが少ないせいか、更に道の整備が悪い。
馬で曳く車なら牽く馬は大変だろうけど、足を取られなければ進んで行ける。
4輪駆動とは言っても、こう泥濘んではこのタクシーではちょっときつい。
「リペア」を使おうとしたが、こう水分が多くてはうまく固められないらしい。
「タイヤのとこになんか都合のいいのが出てないか?」
タクシーのレベルが上がったって言ってたからな、「通信」のついでになんか出てたら儲け物だ。
「ちょっと待って、見てみる」
クレアはスマホ画面で、カーナビのメニュー探索を始めた。
スマホからだと翻訳アプリが仕事をするんで、俺には読めない文字を表示してくれる。
クレアがカーナビメニューを見られるのは「通信」のささやかな恩恵だ。
「残念!
タイヤのとこには何にも生えてないよ」
しかし、この一面の泥道というやつは、溜まった泥で一見平らに見えるから質が悪い。
穴のある場所にタイヤの右の一本がかかるとその穴にズルリと落ち込み、左のタイヤも横滑りしてクルマの向きが変わってガクンと大きく揺れる。
そのあと跳ね上げた泥水を盛大に被るまでがセットだ。
フロントガラスが掠れたワイパー跡で見辛いのはもちろん、左右の窓も跳ね上げた泥で周囲がよく見えない。
外から見ている人がいたら、泥の塊が動いているように見えるだろう。
どうやら攻撃を受けたというわけではないので、結界は仕事をしないようだった。
先日の雨から1週間も経つというのに、どれだけ水捌けが悪いんだか。
「これは失敗したなあ」
「ほんとだねー。
でも、あっちだってどうだったか」
「まあ、確かに行ってみないと分からんか」
ボヤいてみたところで、Uターンなど出来ようはずもない。
ユサユサ、ズルリ、ダップン、とタクシーは進んで行く。
メーターウインドウの時計で2時間、揺られ続けてさすがに疲れが来た。
雨上がりのこんなズルズル道路は皆承知なのか、通る馬車もない。
「宿でこっちの道のこと、聞いておけばよかったよ」
クレアがまたボヤく。
穴を一つ通り越して、ずっと探していたいくらかでも平らな場所を見つけた俺はタクシーを停めた。
時計には11:12とあった。
「弁当があったろ。
ちょっと早いような気もするが、食って一休みと行こう」
俺は食後の仮眠を取ったがクレアに突かれ目を開けた。
1時間程寝ていたようだ。
仮眠にしては寝すぎだな。
15〜20分が頭がスッキリしていいとか聞いている。
クレアは飽きもせずスマホを弄っているようだった。
俺はパーキングからドライブにシフトレバーを切り替え、正面が一面乾き掛けの泥で薄い茶色に染まっていることに気づく。
ウオッシャー液を掛けながらワイパーを回し、なんとか前方の視界を確保するとアクセルを踏み込んだ。
もう何度穴に落ち、それを踏み越えただろう。
タイヤが1本落ちたくらいでは、デファレンシャルギアのないEVはタイヤの空転を起こさない。
スリップさせないようにアクセル加減に気を使うだけだ。
泥道をタクシーはゆらゆら揺れながら進んで行った。
ごく小さな丘を一つ越えた先、土が露出し緩いカーブを描く下り坂が目の前に現れる。
やけに空の見晴らしがいいなと喜んでいたらこのザマだ。
「うわー、すごい坂だね、下までいっぺんに滑って行っちゃいそうだよ!」
クレアの言うのも尤もな話。
剥き出しに土の表面は湿っていて、明らかに泥濘と分かる縞模様が下まで切れ切れに続いている。
確かにタイヤをロックさせて仕舞えば、どこへすっ飛んで行くかわからない。
さて、どうしたものか。
ブレーキは厳禁、それは直ぐに分かる。
が、まさかフリーで滑走するなんてのは恐ろし過ぎる。
スピードがどこまで出てしまうか分からない。
後輪に回転早めのエンジンブレーキをかければいいだろうか?
前輪はフリー回転で舵だけはここできっちり取る。
俺はグローブボックスの奥に埋もれた取説を引っ張り出した。
何ちゃらモードとか言うタイヤの回転設定があった筈と思い出したのだ。
探し当てた取説に老眼鏡首っ引きでコンソールを操作する。
紙の取説は日本語で書かれていてクレアに見てもらうわけにもいかず、何度か図解のところを目を凝らして合わせる。
「本当に大丈夫なの?」
不安そうなクレアがルーフハンドルにしがみ付くのを横目に、俺は急な下り坂へとアクセルを踏み出した。
狙い通り後輪はロックせず下る速さより遅い速度で回転する。
完全に滑っている格好で、グリップは弱い。左右に僅か流れる感触が尻にある。
それでも路面の凹凸に合わせて軽く尻を振るだけで、大きくは振れない。
タイヤの回転が溝に詰まった泥を振り落とし、僅かなグリップを保つ。
後輪をアンカー代わりに下向きに進行方向を取っているとは言え、うっかり横向きになろうものならそこでお終い、もうどこへいくのか神のみぞ知る、だ。
それを前輪で向きだけコントロールする。ブレーキは一切踏めない。
アクセルは踏めたら多少踏んでもいい。
がこの状況で踏みたいやつなんか居るか?
そうやって俺たちは難所を一つ超えた。
2時を少し回った頃、道路からヌルヌルが消えた。
穴が多いのは相変わらずだが、ここは幾らか周囲より地盤が高いらしい。
「ちょっと窓を拭くか」
「いいね。ずっと座ってたからお尻が痛い」
降りて見ると遠くの方まで見通しのいい草原のど真ん中、後方にはヌラッと光る泥水の道。
前を見るとしばらくうねうねと登り坂で、空との境目で道が消えている。
こんな障害物のない野っ原で、なんであんなに道が曲ってるんだか。
クレアがキャアキャア騒ぐんでタクシーを見ると、塗装面なんかほとんど見えない、見事な泥のオブジェがそこにあった。
フロントガラスのワイパー跡が間抜けに見えるくらいだ。
泥でパリパリのボンネットを開け、ポリタンクの水と洗車用具を出した。
「こりゃあとても全部洗うってわけにはいかねえな。
底を突きそうなウオッシャー液を補充して、窓だけどうにかしよう」
クレアが譲らないのでアンドンから洗い、窓とミラーをそこそこ綺麗にしたら、20リットルポリタンクの水は半分も残らなかった。
走り出して丘を越えると右手下に大きな水面が見えた。
ヤナギっぽい木がパラパラと手前を囲んでいる。
対岸はモヤがかかっているようで、霞んで見えない。
大きな波がないので海ではないようだ。この丘を降りたその先で水辺近くを走る道が見えていた。
道沿いには何か線を引いたように細く連なるものがある。あれはなんだろうか。
丘の下り斜面をゆるゆる曲がりながらタクシーは降りて行く。
「あれ、木の柵だね。道と湖を分けてるみたい」
「柵?なんでそんなものがあるんだ?」
「さあ?なんだろうね?」
俺たちは訝りながら木柵のそばにタクシーを停め、降りてみた。
高さは170センチくらい。2段に太い横丸太が組んであって支柱の間隔は2mほど。
俺の背だと上の丸太を邪魔にせず水面が見渡せるが、クレアは膝を屈めていた。
木柵は観光地の手摺にしては、高さがあるし異様にゴツい。
「この柵ってなんのためのもの?
馬車があっちにいかないようにってこと?」
「生き物が引く馬車は、行けって言ったってなかなか水には入って行かないだろ。
あっちからなんか来るんじゃないのか?」
「こんな水溜りに何がいるってのよ?」
50mほども離れた水面から波紋が広がる。
風で起きていたものより、明らかに大きな波が岸に向かって広がってくる。
「お?魚でも跳ねたのか?」
「かなりおっきいんじゃない?
主かな」
目を凝らし波紋の中心を見ていると、こちらへ広がる波だけなんだか大きくなっているような……
何か跳ねた辺りよりだいぶ手前、水面と見分けの付きにくい丸い影のようなものが二つ。
こちらへ漂うように波紋を押して寄って来る。
どうやら丸く見えるのは目玉らしいと分かった。
目玉の前方に尖った白っぽいものが見え隠れする。
「魔物か?大きいぞ!?」
ワニのように突き出た目にツノだか牙だかが上を向いて2本、俺とクレアは警戒して柵から一歩退がった。
目玉の後ろで叩かれた水が大きく跳ね飛び大顎が水から持ち上がる。
押し上げられた水の塊が木柵を超えて滝のように降り注ぐ。
ゴツい木柵が傾ぐほどの衝撃でそいつは岸に乗り上げた。
一歩離れたタクシーの屋根の泥まで、洗い流す勢いで水を浴びてしまってなんにも見えない。
立っているのもやっとの有様だった。
それも収まって顔を上げると、太い横木に大顎で噛み付くカバのようなズングリした頭が目の前にあった。
柵の横木を毟り取ろうとでもしているのか捻る体の後ろに、長く平たい尾が水を叩くのが見えた。
体長は5mを超えてるんじゃないだろうか?
短いヒレのついた2対の手足を見るにハンザキが似ているか。
体を半分に裂かれても死なないと言われるアレを彷彿とさせる。
横木を諦めたのか口を開け水中に下がるハンザキ。
クレアが慌てて槍を取る。
俺は只々見ているだけだ。
また大きな、爆発でもしたかのような瀑布が上がり、ハンザキが岸辺から飛び上がる。
木柵を超えるその勢いに俺は思わず地面を転がった。
目の端には槍を構えるクレア、そこに巨体が覆い被さるように落ちていく。
見えたのはそこまでで、体が回転して俺は地面を舐める。
闘いの鈍い音がしばらく続いて、俺はやっと顔を上げられるようになった。
そこに見えたのはタクシーと木柵に間に横たわるハンザキの巨体だ。
クレアの姿が見えない!
ふらつく足取りで泥水をビチャビチャと滴らせるタクシーを回る。
バックドアを背に、足を伸ばして地面に座るクレアがそこにいた。
「クレア!怪我してないか?」
「あー、タケオ。
うん、なんとか大丈夫だった」
疲れたような返事に何が起きたか聞くと、上から落ちて来るハンザキの顎下辺りに槍で突き上げたと言う。
もちろんそんなことでこの巨体が止めらるわけがないので、飛び退こうとしたらタクシーがハンザキを弾いた。
後ろ足だか尻尾だかが当たってクレアはタクシーの後ろに転がり、ハンザキは柵とタクシーの間で何度も叩き合わされたんだそう。
クレアはそれが収まるまで見ていて、やれやれとタクシーに寄りかかったところへ俺が回ってきたらしい。
「それで、これ、どうしよう?」
クレアが座ったまま俺を見上げて聞いた。
「どうするっても、なんとか解体するしかないだろ」
湖側に傾いた木柵とハンザキ、タクシーの間はほとんど離れていない。このままでは解体などとてもできないので、タクシーを動かそうと左から運転席に乗り込んだ。
まずワイパーを回す。
大量の水を浴びたせいで、フロントガラスが茶色い縞になっていて何も見えないのだ。
そしてメーターウインドウの赤い警告灯は「MSOvFl」の文字だった。
確かこれは「魔石が溢れた」。
溢れたって?いや、なんでだ?
泥だらけの汚いボンネットを開けて見ると、MSキャップが転がって、穴に蓋をするように握り拳ほどもある大きな魔石が乗っていた。
ハンザキの魔石がデカすぎて収まらなかったらしい。
こんなこともあるのか。
ともかく、魔石をビニル袋に仕舞ってタクシーを前に出す。
クレーンで尻尾を吊り上げるが持ち上げ切れない。
引き摺るように草地へ移動して、クレアの土魔法で穴を掘る。
吊ったまま頭を切り落として血抜きの後、積めるだけの肉を切り出した。
それでも半分は捨てることになりそうだった。
下顎から突き上げていた2本の牙は鋭そうな逸品、大きな尾鰭は別にして屋根に積む。
その上に畳んだ一枚皮をのせて紐で括ろうと頑張ったが、ヌルヌルが酷くて手こずった。
クレアと二人がかりでやっと固定した。
お疲れ様でしたー
来週またお会いしましょう♪