お母さん
★
目覚めたとき、俺はやはり暗闇にいた。
例によって、虚無だけが広がり続ける空間。
周囲にはなにもない。
「飯塚くんは……就職しないの?」
後ろから声が聞こえた。
振り向くと、やはり風景が様変わりする。
3年7組の教室。
先日見たばかりの、三者面談しているシーンだ。
今井先生の問いかけに、半透明の俺はやや横柄な態度で言った。
「就職しません。大学に行きたいと思っています」
「でも、お母さんが難しいと言ってるのよ。気持ちはわかるけど……」
「だったらバイトしますよ」
「え……」
「浪人しつつ、バイトして金を溜める。これならいいでしょう?」
そうだ。そうだった。
当時の俺はたしかにこの道を選んでいた。
すぐに社会に出るのが嫌だったんだ。
バイトしつつ受験勉強。
茨の道であることは想像に難くない。予備校にでも通わなければ、自分を律するのも大変だ。
まあ、ご覧の通り進学できなかったんだけどな。
22歳あたりで焦り始めて、派遣会社に登録して……そのままずるずると30歳になってしまったんだ。
「飯塚くん。本当に浪人するの?」
ふんぞり返る半透明の俺に、今井先生がまたも問いかける。
「もう少し、お母さんと考えてみない? 浪人って大変だよ」
「わかってます。わかったうえで言っています」
「そう……」
違う。
当時の俺はこう言っていたが、本心ではこんな道を望んでいなかった。
本当は大学に行きたかった。
本当は現役で進学したかった。
このまま就職するのが怖かった。
だから問題を遠ざけるために、浪人を選択しただけ。
「は、ははは……」
昔の三者面談を眺めながら、俺はうすら笑いを浮かべる。
皮肉な話だよな。
昔はこうやってイキっていた俺が、いまではレオ一匹助けられない。
現実の厳しさを知ることもなく、ただひたすらに自分の意見を叫び続けて……
レオからすれば、俺はみっともない人間に映るだろう。なんとも情けない話である。
――いや。待てよ。
俺は当時、現役での進学を望んでいた。
レオはどうだ。
よしんば里親が見つかったとして、それがレオの望みだろうか。
レオは子犬の頃から、由美と一緒に過ごしてきたはず。
であれば、あのポメラニアンが本当に望んでいることは……里親を見つけることじゃない。
いままで通り――桜庭家で暮らすことではなかろうか。それを『金銭的に無理だから』と里親募集に走って……
なんてことだろう。
このことにいまさら気づくなんて。
本当に笑えてくる。
俺のほうこそ、誰かに人生を強要していたんだ。
自分だって、過去、家庭の問題で進学できないことを恨んでいたのにな。
このままでは、レオは昔の俺だ。
自身の力ではどうにもならない波に呑み込まれ、悲惨な最期を辿ってしまう。
本当に、親って大変だったんだよな。
レオに吠えられて、香苗の気持ちが本当の意味でわかった気がした。あのときの三者面談で、俺は香苗をこうも傷つけていたのだ。
でも――レオだけは助けたい。
……やることはまだ残されているはずだ。
俺はチラと窓に目を向け、稲荷塚古墳を見つめた。
「もしかして……気づかせてくれたのか……?」
どわっ、と。
どこからともなく暖かな風が吹いてきて、俺の意識は間もなく途切れた。
★
視界に光が差し込んだ。
元の世界に戻ったようだ。
保健所の入り口では、職員がレオをなんとか宥めようとしている。だがその暴れようはすさまじく、なかなか手につけられていない様子だ。
そして由美は――地面にうずくまって泣いていた。雨が次第に勢いを増しているが、それすら気にならない様子である。
「……ふう」
俺は息をつくと、背後を振り返りながら言った。
「この光景を――どう思いますか。詩織さん」
返事はない。
だが俺は、彼女がここにいる確信があった。
「……あなたは母親だ。たとえ心が枯れようとも、娘への愛情は捨てきれていない。……いい加減、姿を現してくださいよ」
「…………」
コツコツ、と。
俺の見立て通り、桜庭詩織が物陰から姿を現した。
表情は相変わらずむすっとしていたけれど。
それでも、ときどきチラシ配りを見にきていた母の姿だった。
「……ふん。気づいていたのね」
「なんとなくです。いつも陰で娘さんを見守っていたあなたなら……きっと来ると思ってました」
「ふん、相変わらず一丁前の口を叩くわねぇ」
詩織は鼻を鳴らすと、くるりと俺たちに背を向けた。
「……由美、用事が済んだら帰るわよ。引っ越しの業者が来るわ」
「お母……さん……」
由美はぼそりとそれだけを言う。
とても立ち上がれそうな雰囲気ではない。
「詩織さん! あなただって、本当は気づいてるんでしょう!?」
立ち去ろうとする詩織に向けて、俺はありったけの声を発した。
「若輩の俺が言うのはおこがましいかもしれない! でもあなたは由美の母親だ! 由美がこんなふうに悲しんでいるのを見て――心のどこかで、あなたも悲しんでいるんじゃないですか!!」
「…………っ」
詩織の拳がぴくりと動いた。
「だからどうか、お願いします! 由美の気持ちに気づいてやってください! この通りです!」
無我夢中で俺は膝を落とし、両手をついた。
土下座する俺に、冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。
「く……! なにを言うかと思えば、馬鹿馬鹿しい……!」
詩織が忌々しそうに表情を歪ませた。
「こんな、こんな私が! いまさら母親なんて……!」
「――いいえ。詩織さん。あなたは立派なお母さんですよ」
ふいに第三者の声が聞こえて、俺は目を丸くした。
慌てて振り返ると、思いも寄らぬ人物が歩み寄ってきているところだった。
「か、母さん……!?」
「ふふ。ごめんね良也、来るのが遅くなったわ」
「お、遅くなったって……」
夜勤続きだから来るなって言ったのに。
それでも心配して来てくれたのか……
「詩織さん。どうもお久しぶりですね。覚えておいでですか? 良也の母です」
「え……」
さすがに驚いたか、詩織もきょとんとするばかり。
そんな彼女に、香苗は目を伏せて続けた。
「……同じ母として、あなたの気持ちはわかります。母であることの、なんたる難しさか。愛する息子を輝かしい未来へ導けず、ひとり、涙したこともあります。あなたもきっと、そういった人生の波に呑まれてしまったんでしょう」
「…………」
詩織はしばらく無言だった。
雨に打たれるがまま、しばらく静謐な時間が流れる。
「私に」
そして、ぽつり、と。
詩織が遠慮がちに口を開いた。
「私に、母親の資格なんてありません。高校時代に考えもなく身籠って、旦那には逃げられて、その後もいろんな男に騙されて……。私に、由美の母を名乗る資格はないんです」
それは間違いなく、詩織の初めての告白だった。
「……そうですか」
香苗は一瞬だけ切なそうに眉を垂らすと、純朴に輝く瞳を詩織に向けた。
「その気持ち、痛いほどわかります。私もつい最近まで自暴自棄になっていましたから。そんなとき、光になってくれたのが良也でした。昔は日夜の子育てに苦労しましたが……いまでは、疲れ果てた私を癒す光となってくれた」
そして香苗はコツコツと詩織のもとへ歩みより、その肩に優しく手を置いた。
「……あなたも覚えておいででしょう? 辛い毎日の最中、自分を支えてくれた輝かしい宝物を」
「宝、物……」
「ええ。あなたが思っているより、子どもたちは立派に成長しています。きっと由美ちゃんだって、あなたを嫌いにはなってないはずですよ」
「そ、そんなわけが……!」
「本当です! 詩織さん!!」
間髪いれず、俺は詩織に向かって叫ぶ。
「由美はずっとあなたを待っていた! 家族みんなの楽しい毎日を、誰よりも望んでいたんです!」
「そんな……由美が……?」
「行ってあげなさい。由美ちゃんは、あなたを待ってます」
香苗に背中を押され、詩織はすこしずつ歩を進めていく。
一歩、また一歩と。
離ればなれだった親子の距離が、少しずつ、縮められていく。
この後に及んで、俺も香苗もなにも言わない。
ただ黙って、じっと成り行きを見つめていた。
「由美……?」
へたれ込む由美に対し、詩織も身を屈める。
きっと――かつて幼い由美にそうしていたように。
「風邪引くわよ。屋根のあるところに行かないと……」
「でも……お母さん」
「ん……?」
「私、また遊びたい。レオとお母さんと、家族三人で」
その言葉に。
詩織は大きく目を見開いた。
そして目を伏せ、くぐもった声を発する。
「由美……。私を……まだお母さんだと思ってくれてるの?」
「うん」
「お父さんもいなくて、家も追い出されて……こんなに情けないお母さんなのに……それでも、いいの……?」
「うん。だって」
その後の由美の言葉を、俺たちはきっと一生忘れないだろう。
「お母さんはお母さんだよ。……昔からずっと、大好きなお母さん」
「…………っ」
我慢できなくなったらしい。
詩織は滂沱の涙を抑えることができず、ただひたすらにうつむいていた。
彼女の気持ち、俺にもすこしだけわかる気がする。
過酷な社会の荒波に揉まれ、なにもかもがどうでもよくなってしまうんだよな。
詩織も、さぞ辛い思いをしてきたんだろう。
「由美……」
ぽつりと、詩織がそれだけを呟いた。
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