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お母さん


 目覚めたとき、俺はやはり暗闇にいた。

 例によって、虚無だけが広がり続ける空間。

 周囲にはなにもない。


「飯塚くんは……就職しないの?」


 後ろから声が聞こえた。


 振り向くと、やはり風景が様変わりする。

 3年7組の教室。

 先日見たばかりの、三者面談しているシーンだ。


 今井先生の問いかけに、半透明のはやや横柄な態度で言った。


「就職しません。大学に行きたいと思っています」

「でも、お母さんが難しいと言ってるのよ。気持ちはわかるけど……」

「だったらバイトしますよ」

「え……」

「浪人しつつ、バイトして金を溜める。これならいいでしょう?」


 そうだ。そうだった。

 当時の俺はたしかにこの道を選んでいた。

 すぐに社会に出るのが嫌だったんだ。


 バイトしつつ受験勉強。

 いばらの道であることは想像に難くない。予備校にでも通わなければ、自分を律するのも大変だ。


 まあ、ご覧の通り進学できなかったんだけどな。


 22歳あたりで焦り始めて、派遣会社に登録して……そのままずるずると30歳になってしまったんだ。


「飯塚くん。本当に浪人するの?」

 ふんぞり返る半透明のに、今井先生がまたも問いかける。

「もう少し、お母さんと考えてみない? 浪人って大変だよ」


「わかってます。わかったうえで言っています」

「そう……」


 違う。

 当時の俺はこう言っていたが、本心ではこんな道を望んでいなかった。


 本当は大学に行きたかった。

 本当は現役で進学したかった。

 このまま就職するのが怖かった。


 だから問題を遠ざけるために、浪人を選択しただけ。


「は、ははは……」


 昔の三者面談を眺めながら、俺はうすら笑いを浮かべる。


 皮肉な話だよな。

 昔はこうやってイキっていた俺が、いまではレオ一匹助けられない。

 現実の厳しさを知ることもなく、ただひたすらに自分の意見を叫び続けて……


 レオからすれば、俺はみっともない人間に映るだろう。なんとも情けない話である。


 ――いや。待てよ。


 俺は当時、現役での進学を望んでいた。


 レオはどうだ。

 よしんば里親が見つかったとして、それがレオの望みだろうか。

 レオは子犬の頃から、由美と一緒に過ごしてきたはず。


 であれば、あのポメラニアンが本当に望んでいることは……里親を見つけることじゃない。

 いままで通り――桜庭家で暮らすことではなかろうか。それを『金銭的に無理だから』と里親募集に走って……


 なんてことだろう。

 このことにいまさら気づくなんて。


 本当に笑えてくる。

 俺のほうこそ、誰かに人生を強要していたんだ。


 自分だって、過去、家庭の問題で進学できないことを恨んでいたのにな。


 このままでは、レオは昔の俺だ。

 自身の力ではどうにもならない波に呑み込まれ、悲惨な最期を辿ってしまう。


 本当に、親って大変だったんだよな。

 レオに吠えられて、香苗の気持ちが本当の意味でわかった気がした。あのときの三者面談で、俺は香苗をこうも傷つけていたのだ。


 でも――レオだけは助けたい。

 ……やることはまだ残されているはずだ。


 俺はチラと窓に目を向け、稲荷塚古墳を見つめた。


「もしかして……気づかせてくれたのか……?」


 どわっ、と。

 どこからともなく暖かな風が吹いてきて、俺の意識は間もなく途切れた。

 

 ★


 視界に光が差し込んだ。

 元の世界に戻ったようだ。


 保健所の入り口では、職員がレオをなんとか宥めようとしている。だがその暴れようはすさまじく、なかなか手につけられていない様子だ。


 そして由美は――地面にうずくまって泣いていた。雨が次第に勢いを増しているが、それすら気にならない様子である。


「……ふう」

 俺は息をつくと、背後を振り返りながら言った。

「この光景を――どう思いますか。詩織さん」


 返事はない。

 だが俺は、彼女がここにいる確信があった。


「……あなたは母親だ。たとえ心が枯れようとも、娘への愛情は捨てきれていない。……いい加減、姿を現してくださいよ」


「…………」


 コツコツ、と。


 俺の見立て通り、桜庭詩織が物陰から姿を現した。

 表情は相変わらずむすっとしていたけれど。

 それでも、ときどきチラシ配りを見にきていた母の姿だった。


「……ふん。気づいていたのね」


「なんとなくです。いつも陰で娘さんを見守っていたあなたなら……きっと来ると思ってました」


「ふん、相変わらず一丁前の口を叩くわねぇ」

 詩織は鼻を鳴らすと、くるりと俺たちに背を向けた。

「……由美、用事が済んだら帰るわよ。引っ越しの業者が来るわ」


「お母……さん……」


 由美はぼそりとそれだけを言う。

 とても立ち上がれそうな雰囲気ではない。


「詩織さん! あなただって、本当は気づいてるんでしょう!?」

 立ち去ろうとする詩織に向けて、俺はありったけの声を発した。

若輩じゃくはいの俺が言うのはおこがましいかもしれない! でもあなたは由美の母親だ! 由美がこんなふうに悲しんでいるのを見て――心のどこかで、あなたも悲しんでいるんじゃないですか!!」


「…………っ」


 詩織の拳がぴくりと動いた。


「だからどうか、お願いします! 由美の気持ちに気づいてやってください! この通りです!」


 無我夢中で俺は膝を落とし、両手をついた。

 土下座する俺に、冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。


「く……! なにを言うかと思えば、馬鹿馬鹿しい……!」

 詩織が忌々しそうに表情を歪ませた。

「こんな、こんな私が! いまさら母親なんて……!」

 




「――いいえ。詩織さん。あなたは立派なお母さんですよ」

 




 ふいに第三者の声が聞こえて、俺は目を丸くした。

 慌てて振り返ると、思いも寄らぬ人物が歩み寄ってきているところだった。


「か、母さん……!?」

「ふふ。ごめんね良也、来るのが遅くなったわ」

「お、遅くなったって……」


 夜勤続きだから来るなって言ったのに。

 それでも心配して来てくれたのか……


「詩織さん。どうもお久しぶりですね。覚えておいでですか? 良也の母です」


「え……」


 さすがに驚いたか、詩織もきょとんとするばかり。

 そんな彼女に、香苗は目を伏せて続けた。


「……同じ母として、あなたの気持ちはわかります。母であることの、なんたる難しさか。愛する息子を輝かしい未来へ導けず、ひとり、涙したこともあります。あなたもきっと、そういった人生の波に呑まれてしまったんでしょう」


「…………」


 詩織はしばらく無言だった。

 雨に打たれるがまま、しばらく静謐な時間が流れる。


「私に」


 そして、ぽつり、と。

 詩織が遠慮がちに口を開いた。


「私に、母親の資格なんてありません。高校時代に考えもなく身籠って、旦那には逃げられて、その後もいろんな男に騙されて……。私に、由美の母を名乗る資格はないんです」


 それは間違いなく、詩織の初めての告白だった。


「……そうですか」

 香苗は一瞬だけ切なそうに眉を垂らすと、純朴に輝く瞳を詩織に向けた。

「その気持ち、痛いほどわかります。私もつい最近まで自暴自棄になっていましたから。そんなとき、光になってくれたのが良也でした。昔は日夜の子育てに苦労しましたが……いまでは、疲れ果てた私を癒す光となってくれた」


 そして香苗はコツコツと詩織のもとへ歩みより、その肩に優しく手を置いた。


「……あなたも覚えておいででしょう? 辛い毎日の最中、自分を支えてくれた輝かしい宝物を」


「宝、物……」


「ええ。あなたが思っているより、子どもたちは立派に成長しています。きっと由美ちゃんだって、あなたを嫌いにはなってないはずですよ」


「そ、そんなわけが……!」


「本当です! 詩織さん!!」

 間髪いれず、俺は詩織に向かって叫ぶ。

「由美はずっとあなたを待っていた! 家族みんなの楽しい毎日を、誰よりも望んでいたんです!」


「そんな……由美が……?」


「行ってあげなさい。由美ちゃんは、あなたを待ってます」


 香苗に背中を押され、詩織はすこしずつ歩を進めていく。


 一歩、また一歩と。

 離ればなれだった親子の距離が、少しずつ、縮められていく。


 この後に及んで、俺も香苗もなにも言わない。

 ただ黙って、じっと成り行きを見つめていた。


「由美……?」


 へたれ込む由美に対し、詩織も身を屈める。

 きっと――かつて幼い由美にそうしていたように。


「風邪引くわよ。屋根のあるところに行かないと……」

「でも……お母さん」

「ん……?」

「私、また遊びたい。レオとお母さんと、家族三人・・・・で」


 その言葉に。

 詩織は大きく目を見開いた。


 そして目を伏せ、くぐもった声を発する。


「由美……。私を……まだお母さんだと思ってくれてるの?」


「うん」


「お父さんもいなくて、家も追い出されて……こんなに情けないお母さんなのに……それでも、いいの……?」


「うん。だって」

 その後の由美の言葉を、俺たちはきっと一生忘れないだろう。

「お母さんはお母さんだよ。……昔からずっと、大好きなお母さん」


「…………っ」


 我慢できなくなったらしい。

 詩織は滂沱ぼうだの涙を抑えることができず、ただひたすらにうつむいていた。


 彼女の気持ち、俺にもすこしだけわかる気がする。

 過酷な社会の荒波に揉まれ、なにもかもがどうでもよくなってしまうんだよな。


 詩織も、さぞ辛い思いをしてきたんだろう。


「由美……」


 ぽつりと、詩織がそれだけを呟いた。





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[良い点] 今回も感動しました(っ'-')╮=͟͟͞♡
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