好き?
朝は、昨日よりも早く学校に着くように寮を出た。
早めについたのに、すでに校門にはクズハリストが集まっていた。
あたしに気が付いた隊員たちは、「隊長、おはようございます」と一斉に頭を下げてくる。
昨日よりは耐性がついたあたしは、「おはよう」と落ち着いて返事をした。
「おはよう、昨日はよく眠れましたか?」
麻友が声を絞って、あたしに聞いた。
「うん、まぁ。それなりに」
正直、よく眠れたとは言えない。
眠らなきゃと思うものの、眠って、次に目が覚めたとき、あたしの記憶はどうなっているのか。
不安がこみ上げてきて、電気の消えた闇のような部屋が怖かった。
能天気に「まぁ、いいか」ですませたいけど、突拍子のない出来事が次々と現れて、面食らってばかりだ。
根は暗くて、真面目なんだ。
7ヶ月で根底が変わったわけじゃない。
「とりあえず、居てくれるだけでいいですから」
麻友があたりを見回して言った。
あたしの記憶にあるクズハリストはどちらかというと、キャァキャァと叫ぶ女子集団のイメージだった。
けれど、今は有象無象に集まってきているものの、比較的静かに固まって集まっている。
「そろそろ並んでね」と声をかける女子たち数人がいて、ほかの女子たちはそれに従っているのが見えた。
「なんか、ちゃんとしてるね」ともらすと、「糸崎隊長のおかげですよ」と麻友が言った。
「あたし?」
「そう、糸崎隊長が親衛隊長になってから、秩序が生まれたんです。人に迷惑をかけたら除隊になるってわかっているから、ほかに迷惑をかけたりしません。そういう仕組みを作ったのは、糸崎隊長です」
「――――――あたし、何でそんなことをしたんだろう?」
一年間同じ校舎内にいながらまったく興味がなかった大村葛葉に、急に興味が出たのだろうか。
それにしては、あたしは今、葛葉を見ても何の気持ちの変化も生まれない。
「正直」と麻友が視線を地面に落とした。
「正直、私、糸崎隊長と個人的な会話をしたことがないんです。隊長ってあまり、親衛隊の誰ともプライベートで仲がよい感じじゃなかったですから」
「うん」
そうだろうね。
そもそも、あたしは透明人間だった。
だれかと絡むなんて、あたしのスタンスにはない。
親衛隊に入っても、スタンスは変わらなかったようだ。
「だから、私は糸崎隊長が何を考えていたのか、それほど知っているわけじゃないんです。ただね、私の感想ってだけなんですけど」
麻友はちょっと言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「葛葉様のことを本当に考えて、葛葉様が過ごしやすいようにしてくれのは、間違いなく糸崎隊長でした。それは親衛隊の隊員全員が頷くと思います。今や、隊長を認めていない人なんていません」
「うん」
「ですけど、糸崎隊長はいつも冷静に見えました。葛葉様が好きで好きで堪らないクズハリストは、冷静に親衛隊を運営できないから荒れちゃうんですけど。糸崎隊長は冷静だったから、上手に運営しているんじゃないかって思ってしまうときがありました」
麻友がゆっくりと顔を上げて、ちょっと泣きそうに顔をゆがめた。
「こんなこと、絶対に聞いちゃいけないって思ってたんですけど」
――――――苦しそうな麻友に、あたしも息をのんだ。
「糸崎隊長って葛葉様のこと好きだったんですか?」
麻友の言葉にあたしは答えを返すことができなかった。
二人の間に流れる風を感じながら、しばらく立ち尽くしていると、校門がざわつきだした。
「葛葉様、おはようございます」
女子の黄色い声が響き渡る。
あたしと麻友はちょっと気まずい思いを抱えて、視線をそらした。
「おはよう」
葛葉があたしと麻友の前で足を止めた。
「おはようございます!」
弾んだ声の麻友に合わせるように「おはようございます」とかぶせた。
「鞄、持ってくれる? 昇降口まで」
葛葉は片手に持つ、たいして重たくもない鞄をあたしに差し出した。
受け取らないことも変だろうか、とあたしは鞄を受け取った。
非難の声が聞こえないから、何度か、同じような場面が過去にもあったんだろうと思う。
葛葉の一歩、後ろを歩き出したあたしを、ちらっと葛葉が見た。
「ねぇ、杏」
「はい?」
「今日も昼休み、いつもの場所でね」
――――――いつも、ではわかりません。
説明するには、二人の距離は少し離れていた。
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あたしの記憶には昨日の校舎裏の階段しかなかったから、昼休みとともに向かった。
誰も居ない階段に腰掛けて、コンビニで買ったおにぎりをほおばった。
「早かったね」
声がして、顔を上げると葛葉が立っていた。
「いえ、まぁ」
困ったように視線をさまよわせて、あたしは曖昧に返事した。
「今日は髪、下ろしているんだ」
葛葉はあたしの横に腰掛けると、髪の毛に手を伸ばしてきた。
手が首にかすかに触れて、あたしの胸がドキッと跳ねた。
男性がこんなに近くに居ることも、色っぽく首に触れられることも初めて――――――だと思う。
一応、記憶の中では。
「杏、具合悪いの?」
あたしが黙って、髪を触られていると、葛葉が顔をしかめた。
「いつもなら、俺が触ると怒るのに」
「そうなんですか?」
あたしが首を傾げると、葛葉の眉間の皺がより深まった。
「杏?」
葛葉を真っ直ぐに見つめると、目の中には疑問と一緒に心配そうな色が見えた気がした。
彼には話してもいい?
探るように、彼の目を見つめる。
妙な安心感というか、信頼感が彼にはあった。
「あたし、覚えてません」
「はっ?」
「4月から一昨日までのこと、何一つ覚えてないんです」
葛葉は一瞬、身動きを止めて、瞬きを繰り返した。
「何の冗談?」
「冗談じゃなくて、事実。昨日、朝起きたら、4月以降のこと何も覚えていませんでした。葛葉親衛隊の隊長になったことも覚えてない」
「まさか」
息を呑んだ葛葉にあたしは「本当」と短く返した。
「俺と杏の関係は?」
「それ、一番、訊きたいなって思ってました」
葛葉の表情が一気に険しくなった。
まるで怒っているみたいな葛葉のオーラを感じる。
「葛葉様は、あたしを杏って呼んでるし、こんな風に密会に誘ってくるし、親衛隊長ってだけの関係ではないんですよね?」
あたしが首を傾げると、葛葉は「はは」と空笑いを漏らして、頭を抱えた。
「葛葉様?」
うつむいて固まってしまった葛葉に、あたしは何をどのように声をかけたら良いのかわらかなくなった。
そっと手をのばして、彼の肩に触れると、彼がビクッと体を震わせた。
「恋人」
「えっ?」
「秘密の恋人だった」
ゆっくりと顔を持ち上げた葛葉の目が、あたしを捉えた。
浮かんだままの手をギュッとつかまれて、葛葉の体にこもって熱気を感じた。
「葛葉様」
「杏は俺のこと、葛葉って呼んだよ」
「くずは?」
「俺に敬語なんて使わなかった。まぁ、出会ったときからね」
「あの、あたし、本当に記憶が全く無くて」
「キスしたら、記憶戻るかな? まるで、眠り姫みたいにさ」
キザッぽい台詞をサラリと舌に乗せて、様になっている葛葉は、さすが学園のアイドルだ。
葛葉はあたしが逃げないようになのか、しっかりと腕を掴んでいる。
彼との距離が徐々に狭まって、彼の顔を見ていたはずなのに焦点が合わなくて視界がぼやけた。
間近に迫った葛葉の綺麗な肌を見て、胸がコトコトと小さく揺れた気がした。
「杏」と囁いた声はあたしの体を震わせた。
――――――杏、傍に居て
耳の奥で、記憶の果てのかすかな声がした。
彼の目には浮かんでいない涙の、幻覚が見えた気がした。
「駄目」
あたしは、また、葛葉の胸を押し返した。
葛葉が目を見開いて、あたしを見た。
二人の間に、重たい沈黙がゆっくりと流れる。
「やっぱりね」
自嘲気味に笑った葛葉は、ひどく傷ついて見えた。
「杏と俺は似たもの同士。盟友とか、同志とかが合うかな?」
「何が似たもの同士なんですか?」
「それは、杏が思い出したら?」
葛葉は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「別に杏が記憶を無くしても、何でもいい。でも、約束は守ってよ。俺も杏との約束を必ず、守るから」
「約束って?」
「それも、杏が思い出すべきことだよ」
「教えてくれなきゃ、守ることもできません」
あたしの困った様子を、葛葉は軽く笑い飛ばした。
「駄目だよ。俺は教えない。教えたりなんてできない」
葛葉は立ち上がると、階段を下りて、あたしを見上げた。
「俺と杏―――約束を守ってくれれば、俺はそれで満足する。俺にとっては、最大の譲歩なんだ」
意味のわからないことばかり並べられて、あたしはただ困惑するしかなかった。
背中を見せた葛葉にふと、あたしは思い出した。
「ねぇ、〝橘 慎之介〟って誰?」
葛葉が背を向けたまま、足を止めた。
しばらく固まったように動かないから、訊いてはいけないことを訊いたかと思った。
ごめんっ、と咄嗟に謝ってしまおうかと思ったら、ちょうど葛葉がゆっくりと振り返った。
あたしは開きかけた口を閉じることもできずに、ポカンッと葛葉を見た。
振り返った葛葉は今にも泣き出しそうな表情で言った。
「すげぇな」