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第1話 朝の会議はミルクで始まる

 目が覚めた。


 今日も世界は天井から始まった。


 私はまだ立ち上がらない。正確には、立ち上がること自体は可能である。三歩歩いた実績もある。ただし、立ち上がったり、歩いたりした瞬間に周囲の大人たちが「わああああ!」「すごいすごい!」と国家的な非常事態のように騒ぎ出すため、落ち着いて統治ができないのだ。


 仕方なく、私はベビーベッドの中で手を上げた。


「あー」


 呼び出しである。


 当然、意味としては「朝である。速やかに私を抱き上げ、食料および水分を献上し、ついでにおむつの状態を確認せよ」である。


「あー」


 もう一度、言った。

 寝室へ母が入ってきた。


「ひーちゃん、起きたのー? おはよう」


 政務官一号である。

 そして、ひーちゃんではない。

 私はひよりである。


 出生届にも、確かにそう記されているはずだ。

 周囲の大人たちがかつて「ひよりちゃん」と呼んでいた時期がある以上、私の正式名称はひよりで間違いない。


 にもかかわらず、いつの間にか私は「ひーちゃん」と呼ばれている。


 ひーちゃん。


 軽い。


 あまりにも軽い。

 総理大臣を「げんちゃん」と呼ぶようなものではないか。


「んま」


「あら、かわいい。ママって言った?」


 言っていない。

 私は「んま」と言っただけだ。

 食料の要求とおむつ交換の指示である。

 なぜ彼女たちは、あらゆる発声を自分への愛情表現に変換するのか。


 母は私を抱き上げた。

 視界が上がる。

 これでようやく世界が見渡せる。



 リビングに移動すると、父がテーブルの前でぼんやり座っていた。

 寝癖が立っている。

 政務官二号である。

 疲れきった犬のような顔をしている。


「おはよう、ひーちゃん。今日も早いな」


 ひよりだ。


 そして早いのではない。

 私は一歳である。

 朝六時半に起きるのは、私の権利であり、義務である。

 そして十九時に寝かされる私は、これ以上続けて寝られない。


 母が椅子に私を座らせ、エプロンをつけた。


 食事会議の開始である。


「今日はパンとバナナとヨーグルトね」


 悪くない。


 ただし、バナナの量が問題だ。

 私は皿の上を確認した。

 輪切り。

 大きさは標準。

 柔らかさも適正。

 だが数が少ない。


 これは予算削減である。


「あっ、バナナ見てる。好きだもんね」


 母が笑う。


 違う。


 私は配分の不公平を見ている。

 この家庭の財政が健全であるなら、私の前に置かれるバナナは最低でも今の一・三倍でなければならない。

 昨日、父が夜アイスを食べていたことを私は知っている。

 あの予算は私のバナナ代を削減して購入したに違いない。


「はい、あーん」


 母がスプーンを差し出した。


 ヨーグルトである。


 私は口を閉じた。

 ここは一度、交渉の姿勢を見せる必要がある。


「あれ? いらない?」


 母が首をかしげる。


 いらないわけではない。

 順序の問題だ。


 最初にミルク。

 次にバナナ。

 次にパン。

 最後にヨーグルト。


 最初に喉を潤し、甘味で議会を開き、炭水化物で基盤を固め、乳製品で締める。

 それが定例会議というものだ。


「先にミルクかな?」


 よし。

 今日も勘がいいな。


 だが、できれば何も言わず、いつもミルクから始めてほしいものである。


「じゃあ、次はバナナにする?」


 よし。

 母は有能である。


 私は口を開けた。


「あー」


 バナナが入る。


 うまい。


 やはりバナナは信頼できる。

 果物界における古参議員である。

 派手さはないが、確実に票を持っている。


 続いてパンが差し出された。

 私はそれを手でつかんだ。


 そして、握り潰した。


「ああっ」


 母が叫んだ。


 違う。

 破壊ではない。

 品質検査である。


 パンは握ったときの潰れ方で鮮度がわかる。

 私は厳正な調査を行っているにすぎない。


「ひーちゃん、食べ物はぐしゃってしないよ」


 ひよりだ。

 そして、それはぐしゃではない。

 検査だ。


 母は私の手からパンを救出しようとした。

 私は抵抗した。


「だっ!」


 これは行政介入に対する強硬姿勢だ。


 母は困った顔をしながらも、私の抵抗を受け入れたようだ。

 いったん握り潰すことで、品質検査をしつつ、より食べやすい形状に再加工することができる。

 私は今後も積極的に食料を握り潰していく所存である。



 朝食後、父が私の顔を拭いた。


 雑である。


「はい、きれいになった」


 なっていない。


 ほっぺたの右側にヨーグルトが残っている。

 そして、ヨーグルトに手を入れて手触りを楽しんだ後の右手にはヨーグルトが付いたままだ。

 なぜこれで完了報告を出せるのか。


 私は父のシャツを右手でつかんだ。

 そして、父のシャツにヨーグルトをなすりつけた。


「あー!」


「ちょっ、ダメダメ!」


 ダメではない。


 これは再分配である。

 白いものは白い場所へ。

 社会とはそうやって均衡を取り戻す。


 母が笑った。


「パパ、朝から大変だね」


 父は困った顔で私を見た。


「ひーちゃん……」


 ひよりだ。


 悲しげな顔を向けている。

 悲しませるつもりはない。

 抱っこの安定感は母に劣るが、高い高いの実力は評価できる。

 問題は、寝かしつけ時の歌唱力が壊滅的なことだ。


 その時、父の横に黒いものが見えた。


 テレビのリモコンである。


 私は手を伸ばした。


 あれはよい。

 黒くて細長く、表面には小さなボタンが並んでいる。


 今、私の口の中では歯が生えかけている。

 かゆい。

 非常にかゆい。

 出るなら出る、出ないなら出ない、方向性をはっきりしてほしい。


 その点、リモコンのボタンは非常によい。


 少し硬い。

 少し弾力がある。

 前歯のあたりで噛むと、ちょうどよく歯ぐきを刺激する。


 私はリモコンをつかんだ。


「ひーちゃん、それ噛まないよ」


 ひよりだ。


 父はリモコンを見て、顔をしかめた。


「あ、またボタン浮いてる」


 また。


 つまり、これは初犯ではない。


 私は以前にも、リモコンのボタンを何度も噛み取ったことがある。

 そのたびに父は、小さなボタンを拾い、ため息をつき、接着剤で元の場所へ戻していた。


 ただし、父の修理は完璧ではない。

 接着剤の量を間違えたらしく、押しても反応しないボタンがいくつか生まれた。


 顔もまともに拭けないのに、リモコンのボタンは直せる。完璧ではないが。


 人間には得意不得意がある。


「ひーちゃん、もうほんとにリモコン噛まないで」


 ひよりだ。


 そして、噛まないで、ではない。

 噛みたいのだ。


「それパパの」


 父が言った。


 出た。

 パパの。


 父が使う。

 母も使う。

 私は噛む。

 用途が違うだけで、使用実績はある。

 むしろ最近では私が一番使用しているはずだ。

 ならばリモコンは、家庭共有資産と見るべきではないか。


 母が私に歯がためを渡した。


「こっち噛もうね」


 私は受け取った。

 噛んだ。


 悪くはない。


 だが、噛み応えが足りない。


「んだ」


「おっ、何か言った」


 言った。


 だが、まだ教えない。


 言葉というものは、簡単に与えてはいけない。

 大人たちは私が一語発するだけで大騒ぎする。

 つまり、言葉は外交カードなのだ。


 私は椅子の上で両手を叩いた。


 ぱちぱち。


「上手ー!」


 母と父が同時に拍手した。


 よし。


 今日も政務官たちの心はつかめている。

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