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月下のラビリンス  作者: わたしです
血染めの死門
22/22

夜を纏い、月と共に歩む者

 ――――記憶を見た。


 蹲る男の肩を揺らし、対面の男が叫ぶ。


『頼む、頼む! 守ってやってくれ、助けてやってくれ! あの娘を、私の娘を! 何も知らないんだ、あの娘は何も悪くない。巻き込んでしまった、私の、我らの罪にッ。……どうか、どうか頼む。私の与えられる全ての力を君に渡す。だからどうかッ! 娘を助けてやってくれ!』


 必死の形相で叫ぶ夜の神に、蹲る男は答えない。ただただ涙を流し、狂った様子で謝罪の言葉を呟くだけだ。

 明らかに正気ではない。けれども最早、夜の神が縋れるのはそんな狂った男だけなのだ。藁にも縋る気持ちで自らの力を分け与え、自らが守る娘の元へと男を送り届ける。

 

 その様子を、新月こよみは一歩離れた場所から見ていた。

 これは記憶、世界に刻まれた記録であり、最早戻る事は出来ない過去。先程まであそこで蹲り、泣きわめいていたみっともない男こそ新月だ。第三者の視点で、新月は過去を見ていた。故にこれは思い出している訳では無い、ただ見ているだけだ。世界の崩壊と共に溢れた記憶を。

 

 新月を送り届けた後に、一人取り残された夜の神を見る。

 これは記憶で、壊れた記録の欠片で、既に起きた過去の出来事で。言葉もなにも決して届かない事は分かっている。

 それでも新月は囁くように告げた。


「分かったよ。約束だもんな、借りもある。しっかり果たすよ。この世界で、俺は生きる。精一杯、助け合いながら、アディアナと二人で生きてくよ」


 この後の事は分かっている。

 彼は力尽き、しかし最後の力で自らの欠片と、死者と対話ができるあの世界を作るのだろう。


 だからもう見る必要はない。新月は静かに瞳を閉じた。

 そろそろ目覚める時間だ。



◆ ◆ ◆



「……はっ」


 覚醒は一瞬だった。深く沈んでいた意識が急浮上する。勢いよく開かれた両目が真っ先に捉えたのは、数多の星々がどこまでも広がる輝かしい夜天の絶景。

 目を奪われるとはまさにこの事を指すのだろう。自分が今どういう状況なのかとか、そういう小難しい事はすっ飛んで、景色の全てが金眼に焼き付いた。

 そんな彼に突撃する影が一つ。


「こよみーっ!」

「痛いっ!」


 両腕を広げて飛び込んできた黒い人型の頭部は、新月の鳩尾を正確に捉え、美しい夜空を見て覚えた感動を粉々に吹き飛ばした。代わりに覚えた鈍い痛みを抱えてもんどりを打つ。


「大丈夫ですか⁉ やっぱり無茶だったんですよ、あの化け物に突っ込むなんて! 一体どこを怪我したんですか⁉」

「アナ、アナ。お前のせいだからなチクショウ」


 鳩尾を押さえて身体を起こしながら悪態を吐いて目を細めれば、あわあわと挙動不審に動く黒い人型が目の前に浮かんでいて、思わず頬が緩んだ。

 黒い人型ではない、今では新月の精神世界でしか会う事が出来ないあの美しい本来のアディアナの姿。見た目をそのままに鵜呑みにしていたが、確かに彼女の動作一つ一つに、『幼さ』が見え隠れしている。


 今思えば、気付けるタイミングはあったのだ。

 リーベと下らない事で張り合ったり、初めて迷宮を脱出した時のはしゃぎっぷりだったり。


「どうしたのですか?」

「いや、何でもないよ」


 くつくつと喉の奥で笑いながらじっと見られている事に気付いたのか、首を傾げるアディアナに新月は苦笑を交えて告げた。


「節穴だなと思ってさ」

「?」


 言葉の意味に頭を悩ませ首を捻るアディアナから、視線を外してきょろきょろと周囲の情報を集めていく。


「どこだここ? 迷宮じゃないみたいだけど……。俺もしかして結構寝てた?」

「いえ、時間は経って居ませんよ。ここが最奥で間違いありません。とはいえ、『元』だけれど。迷宮は跡形もなく消滅しました」

「そっか。話に聞いてた通りだな」


 あの『主』と戦った場所は、まさに最奥の名に相応しい、あれ以上道が続いていない終着点だった。だが今いる場所は、どこにでも道が繋がっていそうな、そんな開けた場所。最奥とは似ても似つかない。

 迷宮では終ぞ見る事が出来なかった、満天の星空には言いようのない安心感がある。


「何か、空が近い……?」

「どうも私たちは今、丘の上にいる様です」

「何でそんな場所にいるんだよ?」

「迷宮はこの世界と重なるように出来た別世界のようなモノ。『主』と戦った『最奥』と重なっていたのが、この場所だったのでしょう」

「……確か俺の記憶では、最奥に行くとき地面の下を下って行ったと思うんだけど?」

「ええそう。記憶に間違いはありませんよ。迷宮は正しく、常識では測れない場所だったようですね」


 大きく胸を膨らませ、涼やかな夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。

 あれだけ異質な存在感を放っていた、不気味な門は影も形も見当たらない。


「本当に消えたんだな……」


 喜びよりも安堵の色が濃いため息を吐き出して、終わったのだと改めて事実を確認する。もうこの島に死の気配を帯びた、この世のものとは思えない建造物や、毒に侵されたような木々は存在しない。月明りに仄かに照らされて、眼下に緑豊かな森林が広がっているのが見える。その奥には海が広がり、この島まで新月たちを運んだ大きなガレオン船が停泊していた。


「そういえばクラウス達はどこだ?」


 『主』を倒した場所から移動もせず、時間も経過して居ないのであれば、近くにクラウス達が居るはずだ。

 迷宮を消し去った達成感よりも、今はまず顔を合わせて互いの無事を確かめたい。


「彼らなら、恐らくあちらの方に居るはずですよ」


 アディアナの指差す方角へと目を凝らす。夜とはいえ煌々と浮かぶ月と星々のお蔭もあり、視界状況は悪くない。常に霧が立ち込め、数歩先も見えなかった迷宮を経験した直後のせいかよりそう思う。


「おっ、居た居た。なんか騒いでるな」

「何かあったのでしょうか?」

「分かんねえ。取り敢えず行ってみよう」


 『主』との戦いで少なくない死者が出た事は気付いていた。だがあの時は時間がなく、一体誰が亡くなったのかまでは新月は知らない。

 もやもやとした不安な気持ちをかき消すように顔を左右に振った。


「む。あそこにあの男が見えますよ、こよみ」

「ホントだ。おーい、クラウスっ!」

「コヨミ、そこに居たのか!」


 自分を呼ぶ声に顔を跳ね上げ、乱れた金髪を気にする様子もなく駆け寄って来たかと思えば、彼は目一杯広げた両手で新月を羽交い絞めにした。


「おおお⁉ 痛い痛いっ!」

「この男! 行き成り何をしてるんですかっ! 離れなさいっ」

「君のお蔭だ。コヨミのお蔭で、迷宮を攻略する事が出来た。君がいなかったら僕らが全滅してただろう。……感謝を。この恩は忘れない、必ず返す」

「わ、分かった。分かったから、取り敢えず離せ。男に抱きしめられて喜ぶ趣味はない」

「ああ、すまない。本当に嬉しいんだ、少しばかり興奮してしまった」

「そーみたいだな」

「少しばかりなんてレベルじゃないと思うのだけれど」


 半眼でクラウスを睨みながら、熱烈なハグから逃れようと力を込めた両手が、ぬるりとした感触を覚えぎょっと目を見開いた。

 まじまじと視線を落とせば、両手は真っ赤に染まっていた。

 間違いようもなく血だ。血の霧漂う迷宮を抜けたばかり。夜という事もあって血の存在に気付くのに遅れてしまった。


「おまっ、これ血じゃねーか! どっか怪我してるのかよ!?」

「ああ、いや。安心してくれ、これは僕の血じゃない」


 じゃあ誰のだよ? という質問をするよりも早く、クラウスは答えを出す。


「ほら、彼のだ。――――ゴウトのだよ」

「ゴウトさん⁉」


 視線を向けた先で、騒がしい人だかりが出来ていた。

 人の壁のせいでよくは見えないが、時折魔術と思われる光が明滅するその場所に、確かにゴウトらしき血塗れの巨体が横たわっている。

 

「うっわ、あれ大丈夫なのかよ⁉」

「ああ、幸運なことに生きている。フィトーが付きっ切りで治療に当たっているから、明日には元気に回復してるんじゃないかな?」


 軽い口調だがその表情には隠し切れない安堵が見えた。

 ゴウトの血だと聞かされた時に、ひやりと背筋が凍える感覚を覚えた新月も同様に胸を撫で下ろす。


「マジかよ。魔術すげーな。ゴウトさんは『主』にやられたのか?」

「はいっ、私見てました。叩き潰されたと思ったのだけれど、存外丈夫ですね」

「そういう事。むしろそれ以外に理由がないでしょ」

「そりゃそうか。しかし、叩き潰されたって……。丈夫過ぎるだろ」


 少なくとも、新月であれば原型を留める事なく磨り潰される。

 アラムやリーベも無事だという事を聞き、ほっと一息つく新月の顔色を除くように見るクラウスが、口元に笑みを乗せながら言った。


「そう言えば、コヨミは迷宮で記憶を失ったって言ってたけど、全てが終わった今何か思い出すことはあったかな?」


 首を傾げて問う彼に、そういえば記憶喪失といっていた事を思い出す。

 どうやらそれは強ち的外れでもなかったようだ。新月は目尻を下げて笑った。


「ああ」


 深く頷く。どこかすっきりとした表情で。


「とても大切な記憶を思い出したよ」


 決して忘れてはいけない神様との約束を。

 亡き友との最後の別れを。

 彼は"思い出した"。


「あー、全部じゃないけどな。一応」

「そっか、でも良かったよ。少なからず思い出せて。それじゃあ戻ろうか、僕らの船に。目的は達成した、迷宮が無くなったとはいえ早い所この島を出たいってのが本音でね」

「そうだな、分かった。……クラウス、その悪いんだけど先行っててくれよ、後から行くからさ」


 ちらりと視線をアディアナの方へと向ける。

 その僅かな視線の動きに気付きながらも、理由までは思い当たらないクラウスだが、特に探る事もなく頷いた。


「ふむ、了解だ。僕らは船で待ってるよ」

「悪いな。すぐ行くよ」



◆ ◆ ◆



 澄んだ空気が美味しいと感じるのはこれで二度目。地獄を乗り越え眺める夜空は、どこまでも輝いて見えた。

 言葉を交わす事無く、ただ絶景が記憶に刻まれていく。

 態々クラウスたちから離れ、アディアナと二人になったのは訳がある。


 新月は一人悩む。

 先程の事だ。夢のような、現実離れしたあの不思議な体験。既にこの世に存在しない死者と交わした会話の事を、アディアナに話すべきだろうか?


 あの世界に招かれたのは新月だけだ。魂レベルで同居している筈のアディアナは、あの世界には来なかった。で、あるならば、夜の神は秘密にしたかったのではないか? 新月と会い交わした会話の事を。

 夜の神は言っていた。


『あの娘は何も知らない。私たちが教えてこなかった』


 何を知らないのか、何を教えなかったのか。それは分からない。だが例え死に瀕していようが、秘密にした何かは確かにあったのだ。

 だったら言うべき事では無いかもしれない。


 だがそれと同時に、アディアナにとって夜の神は何物にも代えられない、掛け替えの無い存在。そんな彼の最期を知らせないというのも酷な気がする。

 

 ただ黙って新月は夜空を見つめる。

 どちらが正解か、答えは出ない。


 頭を悩ませ一人で唸る少年の様子を、月は隣で静かに見ていた。


「……そう言えば、こよみこよみ。聞きたい事が」


 とても綺麗な月明りの下で、初めに口を開いたのはアディアナだった。


「大切な記憶を思い出したと言っていたけれど、一体何を思い出したんですか?」


 その問いに対する答えをずっと悩んでいた。

 目を見開いて驚きを顔に浮かべて、隣に浮かぶアディアナと向かい合う。

 そこに居たのは黒い人型だったが、確かに彼女の金の双眸が見えた気がして、どんな答えを返すのか心が決まった。


「アディアナ、夢を見たんだ」

「夢ですか?」

「ああ。死んだ奴と、話す夢を。俺の親友や……、アナの親と話す夢を」

「――――」


 ぽつぽつと話し始める。夜の神との会話を、死者と話せた世界の事を、彼らと結んだ約束の事を。


「約束をした。だから生きていこうと思う。何も知らないこの世界で」


 アディアナは終始黙って聞いていた。

 何も言わずにただ新月の言葉に耳を傾ける。


「けどさ、本当に何も知らないから俺一人じゃ厳しいと思うんだ」


 ゆっくりと片手を差し出す。

 何だか気恥ずかしい気がして、空いた片手で顎を擦りながら新月は笑った。


「だからその、助けて欲しい。俺は生きる。約束を果たす為に」

「ええ。私も同じ気持ちです。生きていきましょう、二人揃ってこの世界で」


 二人は言葉を交わす。

 今は亡き人、神と結んだ約束を果たす為に。

 この世界を生き抜くために。

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