VS『迷宮の主』――下
漆黒の焔が弾けた。
そこにクラウスは己の『死』を見た。死神の足音を耳にした。振りかぶる鎌が風を切る。
『第六感』が警報を打ち鳴らす。急速に喉が干上がり、魔術でも受けたみたいに背筋が凍る。
そこで、終わった。
足が固まった様に動かない。身体が、全身が。
どの方向へ身を捩ればいいか分からない。どうすれば避けれるのか分からない。
恐怖を感じた身体が、条件反射で凍り付く。
どうすればいい? 答えは出ない。時の流れが次第に緩やかになっていく。
攻撃はいつ来る。じわりと黒い何かが視界の隅から流れ込む。
まだ来ない。だが何れ来る。そうなれば避けようがない。
まだ。まだ、まだまだまだまだまだ……。
視界の全てが恐怖で黒く染まった時、ぐぃいと身体が強引に下に引っ張られるような錯覚を覚えた。
――否、錯覚ではない。腹に強く何かが巻き付く感覚と共に、勢いよく身体が下に引っ張られる。踏ん張る事も出来ずに一気に落下した。
そのクラウスの額擦れ擦れに、巨大な腕が振るわれる。
助かったと、取り戻した視界で、死神の鎌を見つめるクラウスの鼓膜を声が揺さぶった。
「おい何してんだよ! なんで避けない、死ぬつもりかバカァ!」
「コヨミ……?」
白髪の少年が、左手から漆黒の蔦を伸ばし殆ど泣きそうな表情で叫んでいた。
「まさか諦めたんじゃないだろうな⁉ 冗談だろ、俺まだ死にたくねえよ!」
「そうですよ、もっと限界まで頑張りなさい。命を削って頑張りなさい。その身朽ち果てるまで頑張りなさい。貴方がこんな場所にこよみを連れて来たのだけれど! 忘れたのですか⁉」
「アナ、アナ。一応俺が自分で決めたし、何か遠回しに死ねって言ってるような気がするんだけど?」
「ええそう。この男のせいでこよみは酷い目に合ってる。だから遠回しに死ねと言ってるのだけれど?」
「……アナ、アナ。クラウスが死んだら、俺らも死ぬと思うんだ」
白髪の少年と黒い人型が繰り広げる、状況にまるで合っていない能天気な会話。
背中で荒い息を吐くアラムが、小さく耳元で噴き出した。
「何を、してるんだ……?」
「俺にも出来ることやりにきた。取り敢えずフィトーさんとこ行こうぜ、あの人滅茶苦茶心配してる。それこそ俺にお前を連れて来てくれって頼み込むぐらいに」
「フィトーが……。《ボイス》の影響は、フィトーが治したのか……」
頭が上手く働かない。
生きているという歓喜を瞬く間に塗りつぶしていく、死への恐怖を外へ漏らす訳にはいかない。誰にも悟らせる訳にはいかないと、声の震えを押さえる為に深く深呼吸を繰り返すクラウスに、新月はさっぱりとした表情で首を振る。
「いや、自力で」
「はあ?」
まじまじと目の前の新月の顔を見る。どうも嘘は言っていないらしい。
「そんな事はどうだっていいだろ」
「そんな事って……」
例え浅くとも一度完全に《ボイス》に飲まれた状態から、自力で復帰する事の大変さをどうも分かっていないようだ。
ただ、彼の言う事はもっともだとクラウスは思う。確かに、今現在の状況を鑑みれば、どうだっていい情報だろう。分かっていても、クラウスは考えるのを止めない。今はまだ早いのだ、芽吹いた恐怖は大きく、再び向かい合えるようになるまで、もう少し心を落ち着かせる時間が必要だった。
だが時間は有限だ。緊迫した状況で、恐怖を乗り越える為に心を落ち着かせる時間など作れない。
新月が言う。
何でもないような顔を少しだけ焦った表情に変えて、彼はこう言った。
「兎に角急げ、アイツこっちめっちゃ睨んでる。てかすげー振りかぶってる! これ絶対ここ殴ってくるだろっ」
「……は?」
例えば冗談。今ここにある絶望的な空気を何とか物色しようと、彼なりに考えた笑えない冗談。
例えば幻覚。最早死の運命からは逃れられぬと絶望に飲まれ、あり得もしない光景を現実の如くに見る幻覚。
様々な可能性が浮かんでは消える思考の海に、クラウスはぼんやりと揺蕩っていた。
根底にあるのはただ一つ。
――何を言っているんだ、コイツは?
言った者の正気を疑う言葉。
だって。だってそれでは、まるで――。
「待って、待ってくれっ」
声は震えていた。
でも決して恐怖で震えた訳では無い事を、誰もが感じ取った。
そして言う。震えた唇で、決定的な問いかけを。
「こよみ、君、見えてるのか? 『主』の攻撃が」
「はあ? 何言ってんだよ、見えない方がおかしいだろ。あんな大振り」
彼は答えた。本当に何でもなさそうな、心の底から質問の意味を理解していない顔で。
(――――)
疑問が電流のようの脳内を駆け巡る。
目の前の白髪の少年の言葉は果たして真実か、嘘か。
答え合わせは直後に行われた。
背後で殺気が膨れ上がる。振り返ったクラウスには確かに死神の鎌が見えた。『主』の眼孔から火が噴いた。
そして世界は切り替わる。気づけば既に拳は振るわれた後。
木の根を粉砕し突き刺さるその場所は、先ほどまで立っていた場所だった。
新月と会話を交わし、手を引かれるままに後にした場所だった。
「は……」
掠れた声が漏れた。
かさついた唇は次第に大きく空気を吸い込み、気づけば腹の底から笑っていた。
「はははっ! あははははははは!」
「え、え? 何、何なの⁉」
「こよみ、この男、突然笑いだしたのだけれど。もしかすると精神が崩壊したのでは?」
「そこはかとなく『ざまあみろ』という愉悦感情が見え隠れする気がするんだけど?」
「よく気が付きましたね、その通りです!」
「んんっ」
この絶望的な状況からしてみれば、全くもって似つかわしくない他愛もない会話。
だがそれも仕方が無いのかもしれない。彼が見ている現実と、クラウス達が見ている現実は完全に乖離しているのだから。
「こよみ、頼みがある」
「ん? おう、勿論俺にやれる事ならやるけど、その前にフィトーさんとこ行こう? ほら、あの人ずっとこっち心配そうに見て――」
「斬ってくれ」
「うぇ?」
「頼みだ。斬ってくれ。君の剣で、奴の腕を」
「ちょっ、待て待て!」
慌てた様子で一歩後ずさり、前へ突き出した両の掌を振って落ち着けと動きで示す。
「行き成り何を言いだすかと思えば! 一応戦うつもりで剣もってここまで来たけど、俺は剣とかまともに振った事もないから何か期待してんだったら裏切る結果になるぞ!」
「多分ならないかな。勘だけどね」
「勘って……」
「頼むよ」
「ああ、もう分かったよっ」
お手上げだと前へ差し出していた両手をそのまま上へ上げて、新月は大きく息を吐いた。
返答に満足気に頷いくクラウスは、ふと自身の胸のうちの変化に触れる。気づけばあれだけの恐怖は消えて、代わりに別の感情が芽生えようとしていた。
まだ芽吹くかも分からないそれを大事に握りしめ前を向く。
前方、多少の距離を取って少年が立っている。
何事かと大声を上げ『主』の注意を引いた少年は、緊張した面持ちでクラウスには見えない何かの動きを追う。
『主』の眼孔が炎を炊き世界が切り替わった。
突然出現した『主』の拳は、しかし新月には掠りもしない。まるで緩やかに飛んできたボールを避けるような動きで、危なげなく拳を完全にかわし切る。
木の根の床を削る派手な音を立て振りまかれた衝撃に白髪を揺らし、少しばかりたたらを踏みながら何とか維持した体制で腰に下げた剣を抜く。何の変哲もない鋼の剣。魔力を帯びてすらいない普通の剣。
それを彼は一目で素人だとわかる動きで、『主』の腕目掛けて全力で振るった。
「オラッ!」
拙いながらも全力の気魄で放たれた刃が、『主』の真黒の腕を切り裂いた。
『主』の腕はどろりとした液体で出来ている。ドパッ! と弾け、糸を引きながら滴る傷口を固唾をのんでクラウスは見守った。
果たして。
状況を理解できていないのは、刃を振るった本人である白髪の少年ともう一体。
ぎょるりと弾ける炎の眼球が不思議そうに自らの腕に刻まれた傷を見て、――――叫泣。
【ギィッ⁉ ガッ、グギガァァァアアアアアアア⁉⁉】
『主』が吠えた。
今までとはまるで違う。それは正しく、悲鳴だった。
(ああ……)
はっきりと思う。
天高く両腕を上げ、けたたましい叫び声を打ち上げる『主』の姿に。
クラウスは思う。
きっと、あの海の上で、彼と出会ったのは運命だったのだ。
芽生えた光り輝く『希望』を胸に、クラウスは金の髪を揺らした。
「僕が全力で奴の気を引く、だから君が止めを刺せ」
「いや無理でしょ、冷静になれって」
「僕は冷静だ。コヨミこそ大丈夫かい?」
どちらも真剣な表情で、面と向かって互いに互いの正気を疑い合う。
負傷したアラムとリーベはフィトーの元へ送り届け、身軽になったクラウスは新月と並走しながら戦場を流し見る。
始動、過程において不可視の『主』の剛撃を見破る事が出来るのはここにいる新月こよみともう一人。『人』かどうかよく分からないが、鈴の音を思わせる透き通る声色を持つ黒い人型が、戦場を廻り今尚戦う騎士たちの『目』となっていた。
「そろそろ来ますよ、そこの貴方全力で逃げなさい。今貴方が立っている場所だと、直撃コースですので」
彼女のお蔭で『主』の攻撃は躱せるようになっている。
だがやはり未だに再生の壁を超える事は出来ていない。
「君だけだ」
衝撃で捲れ上がった木の根の裏に身を潜めて、クラウスは新月へ向き直った。
「『主』に傷を与えられるのは君だけなんだぞ」
「でも見ろ、この剣! そんであの『主』のでかさを見ろよ! 爪楊枝だこんなもん、絶対効かねーよ!」
「いいや効くさ。見た所『主』の耐久力は再生に頼り切っている。正しい場所を攻撃すれば、その剣でも倒せる筈だ」
「正しい場所ってどこよ」
「それを今から見つけ出すんだ」
握りしめる光の剣へと目を落とす。
「頼むコヨミ、君しかできない事だ」
「~~~~ッ! ああ、もう! 分かったよ、分かってるよ! この期に及んでちょっとビビっただけだ!」
早々に諦め叫ぶ新月の目を見る。
満月のような黄金の瞳に確かな覚悟を見た。
「頼んだよ」
「お前こそ」
それで終わる。会話が途切れる、視線がそれぞれの方向へと向かう。
大きく息を吸い込み、クラウスは飛んだ。光の尾を引きながら垂直に空を駆け上り、真っすぐ視界の中央に『主』を収めた。
彼我の距離は遠く、クラウスの剣も『主』の拳も届かぬ射程外。
しかしクラウスは眼前に光の剣を持っていき、囁くように空気へと言霊を乗せた。
「――【世界を巡る祝福の光よ――】」
自らが用いる最大の武器を用いて放つ、強力無比な必殺。
空気を震わせる言霊と共に収斂していく光に、『主』の炎の二つの眼球が弾かれた様に向けられた。
燃え盛る眼には警戒の色が存在していた。本来であれば不死である筈の肉体に刻まれた未だに癒えぬ腕の傷。それが『主』に不遜な態度を取ることを許さず、攻撃の手を止め睨むように前方を見据えた。
紅の双眸と、燃え盛る炎の眼差しが空中で交じり合う。ぶつかる殺意と殺意が溶け合い空気が熱を孕む。
刃の如く鋭く研ぎ澄まされた意識が、獰猛な火花を散らす。一瞬が永遠にも感じられる程凝縮された時の中、静かな口調でクラウスが口火を切った。
「オマエ、知能があるな」
僅かな衣擦れの音すらない、静寂の中で言葉は確かに『主』へと届いた。
警戒に膨れた黒い炎が微弱に揺れた。言葉に反応するように、意図を探るように。
だからクラウスは笑った。
「僕の言葉が分かってるだろう?」
自信満々に。
勝利を信じて疑わず。
ハッピーエンドが確定している物語の主人公のように。
「だったらようく聞け」
――――笑う。
「オマエなんか僕の敵じゃあない。楽勝だ、『迷宮の主』」
【ギッ! グルゥアアアアアアッ‼】
憤怒に染まった返答があった。警戒が瞬く間に塗りつぶされていく。
漆黒の炎が爆炎の如き勢いで炸裂し、死神が鎌を振り上げる姿を幻視した。攻撃が来る。
迎え撃つように、クラウスも剣を振るった。
刃の形に輻輳された光が解き放たれる。全てを薙ぎ払う絶大な破壊のエネルギー。
叫ぶ。
「――【光あれ】ッ‼」
轟然と声高々に。
そして――――。
◆ ◆ ◆
「――【光あれ】ッ‼」
声が響き渡った時には既に新月は走り出していた。誰もが輝くクラウスの剣に目を奪われている。『主』でさえも例外ではない。
クラウスが作り出した千載一遇のチャンス、必ず物にするために最短ルートを踊る白髪越しに探った。
――行ける。
確かめるように剣の柄を握りしめる。慣れない感触だ。数日前までこの手がこうまで必死に握るものと言えば、買い物終わりにパンパンになった鞄ぐらいではないだろうか。何の因果か鋼の剣を握り、化け物の親玉を殺すために地を蹴り飛ばす。きっと過去に戻って話したとして、誰一人として信じてはくれまい。もしかすると、今の新月ですら全ては悪い夢だったと思うかもしれない。
過去に戻れば。
しかしどれだけ願えど時は真っすぐ未来にしか流れない。
戻る事は出来ない。もうあの平凡で平和な、狂おしい程の代わり映えしない日々には帰れない。
だから。
前へ進む。駆け抜ける。
「ハッ、ハァ……っ!」
荒い息を吐き、高鳴る鼓動を押さえつけた。
何だかここに来てから走るか、歩くかの記憶しかないように思えて、新月は笑みを零す。
追われて、逃げるために、走り続けた。
今度は終わらせるために走る。駆け抜ける。『主』目掛けて。
「見えた。あそこだな……ッ!」
クラウスが砲声し解き放った破壊のエネルギーは、『主』の身体へ直撃した。屍が悲鳴を上げ、肉片となって飛び散ると同時に莫大な黒々とした煙が立ち上る。瞬く間に修復されていく屍の巨躯。
だが見えた。確かに新月は見た。光の剣が直撃する寸前、『主』が僅かに身を引いて、片手を背後に回し首の後ろを守ったのを。
我武者羅に打つだけでは無駄だったかもしれない、開幕と同時に撃っても無駄だったかもしれない。
直前に新月に傷を負わされていなければ、きっと『主』は防御へ移る事はなかった。
癒えぬ傷を付けられたという警戒が、『主』の弱点を暴き出す。
「高いな、くそったれ!」
ざっと高層ビルにすら匹敵する圧倒的な体躯を持つ『主』の首は、地上を走る新月がどれ程手を伸ばしても届かぬ高所。
悪態を吐き左手へ意識を集中させる。
ぶわりと広がる漆黒の蔦を操作し、奇声を上げる一体の屍へ巻き付けた。
「ッラ!」
地面をこれでもかと強く蹴り飛ばす。蔦で全身を持ち上げる大跳躍。
【キィアアァァアアア】【ギャッギャッギャッギャッ】【ガグググゥゥウ】
喚く亡者を足場に真上へ向けての疾走。視界にチラつく亡者から強引に視線を外し、ただ真っすぐに弱点を目指して駆け上る。
一度絡めた蔦をさらに上の屍へと更新しようと、歯をむき出しに唸る亡者の顔面を踏み抜き中空へと身を躍らせた。
「やばっ」
体勢が狂った。均等にならしたコンクリートとは訳が違う。顔を踏んだぐにゃりとした感覚に、上手く跳躍できず天地が回転した。
咄嗟に蔦を伸ばす。何かに引っかかれと念じて、しかしさっぱり見当はずれの方へと飛んでいく。
「こよみ!」
「アナ⁉」
名前を呼ぶ声に目を丸くさせ仰天する。空中で何もつかめる事なく、ふにゃりと項垂れた蔦を黒い人型がしっかりと握りしめた。
「さあ行きますよ、準備はいいですね?」
「良くないけど良い! やってくれっ」
「そぉれっ!」
ぐるりと回転し、勢いをつけてアディアナは全力で新月を打ち上げる。
真っすぐと今度は体勢を崩す事なく、『主』の首元を見据える。
「――――」
少しだけ不安になった。果たしてこの剣で、本当に『主』に止めを刺せるのか。
両目を僅かな間だけ閉じて、鋼の剣を両手で持ち直す。
(そうさ、クラウスも出来る。だったら、俺にだって)
風圧で靡く漆黒の蔦を操作して、巻き付けるように剣の刃を包み込む。思い浮かべるのはクラウスの光の剣、あれと同じ事をしよう。
びしりと星形を含んだ黒い蔦が、刃に巻き付けられる。収束する、収斂する。まるで溶け合うように、黒い蔦が刃に染み込んだ。
両目を開ける。
アディアナの力加減は抜群だ。目前に迫る『主』の首を睨みつけ、歯を食いしばりながら新月コヨミは思うのだ。
ちょっとは。ちょっとぐらいは。
「神様との契約者らしいとこ、みせなくっちゃな」
剣を振り上げる。
天に広がる満点の夜空のような色に染まった一振りの剣を。
「これで俺の勝ち、楽勝だッ! 『迷宮の主』ィィイ―――――ッ!」
勝利を渇望する灼熱の雄たけび。ズァ! と凄まじい音が炸裂する。
【血染めの死門】。『迷宮の主』。その悪夢の全てに。
全身全霊を込めた渾身の一振りが幕を下ろした。




