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五章-2

 道筋はしっかりと記憶している。万一忘れても、地図を確認して構わないのだ。とにかく、落ち着いて確実にすべての監獄を回ること。一つの監獄に九十分。余裕を持った時間で、臨む。

 初めて『月』の国を歩いた。『月』の本拠地へ来てから、ずっとヨハンの家にいて、外に出ることがなかったから仕方がない。

 ヨハンの家もそうだったが、外も淡色だった。目を傷めないために薄く色がにじんでいるが、濃い色は見当たらない。エリカの視界に映る濃い色といえば、フードからこぼれる自分の黒髪程度だ。

 なるべく気の抜けた感じで歩け。ヨハンにそう言い聞かされた。信徒は何も考えていない。言いつけに従うだけで、自分で何かを考えるということができないのだ。だから歩いているときもそれを忘れてはいけない。

 民家もあるにはあるが、ヨハンのほど大きくはない。人が寝て食べるに困らない程度の、最小限の造りだ。信徒に家族という概念はない。きっと、家族と呼べる人と同じ屋根の下で暮らすことすらないのだろう。

 信徒とすれ違うことが時々、あった。そのたび、自分が信徒ではないことが発覚するかとひやひやしたが、そんな心配は必要なかった。ヨハンやイオリの言うとおり、彼らは何の疑問も抱いていない。ただの信徒は、よほどの挙動不審を起こさない限り、こちらに見向きもしないのだろう。それはそれで、助かる。多少の不気味さを感じずにはいられなかったが。

 最初の監獄だ。ここは普通の信徒が交代で看守をしている。なるべく当たり前のように努めて歩いた。あっさりと素通りできてしまった。看守はエリカを気にしなかった。

(本当に何も考えてないのね)

 監獄は本での知識しかないが、その知識の中に淡色の監獄というのは存在していない。クリーム色の監獄は、どちらかと言うと集合住宅に近い雰囲気だった。

 心なしか、看守たちの避けて通る場所があった。誰も近づきたがらない。どうしても必要な場合はなるべく距離を置いてそこを通っていた。もしや、と思って最初は素通りしつつ横目でそれを確認した。一瞬で済んだ。

 そこに、ぼろぼろの人形がぽてんと置かれていたのだ。びりびりに裂かれて綿が飛び出ていて、踏まれた痕がくっきりと残っている。相当ひどい折檻を受けたようだ。

 変わり果てたその人形を、エリカは知っている。猫の人形、いつも見慣れていた、ワトソンがそこにいる。

 エリカは焦る気持ちをこらえ、いったんはそこを通り過ぎることにした。折を見てもう一度そこへ戻り、ワトソンを助けるのだ。ポケットの鍵束に、服越しに触れる。少なくない数の鍵が小さく音を立てる。幸い、時間はある。それに、看守はみな人形を恐れて近づきたがらない。わざわざ人形に近づくエリカを見ても不思議に思う思考なんてないし、加えてそこは忌避する場所だ。

 監獄を一周し、エリカは再びそこへ戻ってきた。少しだけ、早足になった。看守に気づかれない小さな声で、投獄された猫の人形に話しかけた。

「ワトソン。ワトソン」

 人形が、わずかに反応した。

「……その声、お嬢様ですか?」

「そうよ。助けに来たの。待ってて。鍵が多くて……」

「危険です。今すぐにでも戻ってください」

「嫌よ。あなたたちを見捨てて一人だけ助かったってちっとも嬉しくないんだからね。それに、わたしはおじさまから受け取った懐中時計を通じてこっちに来ちゃったのよ。今更危険も何もないわ。……ええっと、これは違うと」

 エリカは不慣れな手つきで鍵を一つ一つ確認していく。牢獄の柵は、小さな人形すら通さないくらい、ご丁寧に幅狭く造られている。

「お嬢様。聞き分けの悪い子はレディではありません」

 ワトソンは、エリカにとって弱い言葉を突きつけた。『レディ』という言葉は、エリカの目標ともなる、ある種の神聖さを持っている。

 ――ワトソンも、おじさまと同じことを考えるのね。

「ワトソン? レディって言葉を出せばわたしが引っ込むとでも思ってる? 今まではワトソンたちのいう『レディ』が大切だったわ。今でもみんなの言う『レディ』に間違いはない。だけど今回ばかりはあなたたちの方が間違いよ」

「屁理屈はレディのすることではありませんよ」

「知ってるわ。でもね、屁理屈じゃないからわたしはまだ『レディ』失格じゃないわ。聞いてちょうだい。あなたたちにとって、わたしがとても大切なのは身に染みてわかる。それがありがたいことなのもね。……これでもなかった」

 エリカは別の鍵を鍵穴に差し込んだ。

「だけどね、わたしにとっても、あなたたちがすごく大切なの。わかる? そんな大切な人たちと一生会えずに新しい生活をしろなんて酷だわ。それにね、……あ、違った」

 いらだちを押し込め、あくまで冷静に鍵を探す。

「大切な人が危ない目に遭っているというのに、それを見捨てて自分だけ助かろうなんて考える方がレディ失格よ。いえ、レディ以前の問題だわ」

「……お嬢様」

「わたしは、なんとしてもあなたたちを助け出す。もちろん、人間の体もろともね。猫の人形のワトソンもキュートで素敵だけど、人間の男の人の姿のあなたも、とっても素敵よ」

 ようやく、鍵が合った。エリカはなるべく音を立てないように開け、ぼろぼろの猫の人形をそっと抱きしめる。

「あのね、わたし一人で危ない目に遭ってるわけじゃないのよ。むしろわたしは安全なくらい。ヨハンとね、仮だけどイオリが協力してくれてるの」

「ヨハンが……? あの間抜けな学者が、僕らのために?」

「そうよ。ワトソンにとってヨハンがどんな風に感じるのかはわからないけれど、三人でみんなを助けようとしてるの」

 エリカは人形をポケットにしまい、監獄の鍵をかけなおしてその場を冷静に去る。

「ねえワトソン。あなたにとっておじさまはとても大切な人なんじゃないの? わたしと同じように、おじさまやコーデリアが大好きなんでしょう? 本当なら、あの時、自分一人だけ残って、おじさまもコーデリアも逃がしたいって思わなかった?」

「そりゃ思いましたよ。だけど……」

「だったら協力して。危ないから逃げろなんて、せめて今だけはわたしに言わないで。わたしはね、あの時のあなたと同じ気持ちなのよ」

「わが身が危険にさらされる恐怖より、愛しい人が悪に弄されることの怒りが勝ると?」

 エリカは顔をしかめた。その直後、しまったと後悔したが、幸いに誰もエリカの表情の変化を見ていなかった。

「とても詩的で素敵な表現だわ。でもね、もう少しわかりやすい言葉を心がけましょう?」

「あの……あの時の僕の気持ちはまんまその言葉なんですけど」

「……あなた、平常時からずっと詩人なのね。転職したら?」

「趣味で消化してますんで転職の予定はございません」

「趣味で? だったら今度詳しく教えてくれる?」

「コーデリアにも旦那様にも見せたくないこっぱずかしい汚物なので諦めてください」

「なるほど、まだ人に見せるには未熟なのね。ならいい出来だと思えるものができたら、教えてね」

「……精進します」

 小声で会話をしているうち、最初の監獄を抜けることができた。

 地図を見る必要もなく、エリカの足取りはしっかりしている。見て覚えるだけなら簡単だ。問題は、地図と本当の地理の感覚が釣り合わせにくいことだ。『月』の本拠地の外に出てまだ間もないエリカには、土地感覚が完全に勘頼みになってしまう。

「ワトソン、少しの間だけ、我慢してね。すぐに、人間に戻すから」

「頼もしいです。くれぐれも無理はなさらぬよう」

 エリカは地図に示された道筋を歩いていく。人形のワトソンを助けることができた高揚を押さえつけ、あくまで冷静に。

 そういえば、ヨハンとイオリは大丈夫だろうか。あの二人は、いつかの全滅計画に関わり、実行者として行動していた。同じ作戦をなぞるだけだから、エリカよりはずっと慣れている。きっとトラブルが生じてもすぐに対応できるだろう。それでも、心配なのは心配だ。

 とにかく、自分に課された仕事をこなして一刻も早く、ヨハンのあの家に帰るしかない。


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