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三章-2

 その後のやることは決まった。エイナルとワトソンとコーデリアを救出すること。そのために、エリカはヨハンからやることを言い渡された。

「君の知識だけじゃ太刀打ちできない。この研究記録をもっかい読んで、『月』のことを頭にしっかり叩き込んどいて」

「ええ。でもヨハン」

「何?」

「字が汚くて読めないわ」

「…………本当にすんません」

「何とか解読はできるけど、読むのに時間がかかるわ。明日の朝まで待ってもらえる?」

「そんな短くていいん? 二日くらい置こうと思ったんだけど」

「平気よ。読んで覚えるだけならそんなに時間はかからないから」

「頼もしい」

 散らかっている勉強机から抜き出したぼろぼろの研究記録は、一冊の本並みの厚さがあった。内容は『月』という教団に関する事項ならば何でも書かれており、一種の事典と言っても問題はなかった。文章も簡潔さが重視されていて、誰が読んでもすぐに理解できるような、ヨハンの気づかいが感じられた……字の汚さを除いては。

 椅子にちょこんと座って膝の上に記録を広げ、エリカはひたすら中身を読んだ。もともと勉強はワトソンやコーデリアに見てもらっていたので、字を読むのに苦はなかった。

 その間にヨハンはというと、部屋中のものをひっくり返して何かを探しているようだった。片付いていてすっきりとしていた淡色の部屋が、淡色の雑具で散らかり放題になっていくのを、エリカは呆れつつ横目で見ていた。

 昼になると、ベルが鳴った。信徒の子供が昼食を届けに来たのだろう。ヨハンの目配せをくみ取ったエリカは、研究記録を抱えてベッドの陰に隠れた。

「今日の昼の分です」

「はいよ。ご苦労さん」

「それでは失礼します」

 感情のこもらない声と無表情を決め込んだ子供は、機械的な一礼をしてすぐに去って行った。ヨハンの「もーいーよ」の声でエリカは出てきた。

 紙袋に入っていたビスケットは三枚と枚数に変わりはなく、水もボトル二本だけだ。ビスケットの一枚を半分に割り、一枚と半分を分けて食べる。集中して記録を読んでいたためか、急に空腹感がエリカを襲ってきた。

「そういえば、もうお昼だったのね」

「何か好きなことに没頭してると時間は短く感じる、って聞いたことがあるが、あながちウソでもなさそうだな」

 昼食はあまりに質素で清貧だったが、甘さを引き出すほどによく噛んで食べれば、物足りなさもなかった。もともとこのビスケットは、ほどよい満腹感を与えるよう仕込んであるらしい。

「ところで、さっきから何を探していたの?」

「んあ、イオリに頼まれてたブツをちょっと」

「ぶつ?」

 ヨハンは半分のビスケットを飲み込んだ。

「こっちに来るとき、餞別としてもらったもんがあったんだ。どこにしまいこんだかすっかり忘れちまってねえ」

「わたしも探すの手伝うわ」

「いや、君、記録の詰め込みはどうしたのよ」

「あと半分。少し体を動かしてからもう半分を読むわ」

 空腹を忘れるほどに集中していたことも幸いして、記録の半分は読み、理解できていた。ヨハンは「じゃあ頼むわ」とエリカの好意を受け取ることにした。

 といっても、エリカのすることはヨハンの散らかした惨状をもとに戻すことがほとんどだった。衣服や家具がそこらへんに転がっているのを、放置したくなかった。どれもこれも淡色で、申し訳程度に色がついているだけだ。模様や柄なんてない。色があるとはいえ、無色も同然だった。エリカはため息をついて、家具を棚に戻す。こういったものがあるのは悪くないが、それがすべてだと思うとげんなりする。少しは彩りが欲しいものだわ、とエリカは心の中で毒づいた。

 片づける一方で、ヨハンがまた探し物をして散らかすので堂々巡りもいいところだった。せっかくエリカが片づけたのに、ヨハンは整頓されたところを片っ端から何度も掘り返す。

「ヨハン……探してるものってどんなもの?」

「あー……うん」

 生返事しか返って来ず、エリカは呆れる。目的の物を見つけるまでは、ヨハンはエリカのことなど二の次だろう。

「……って、君、悪いねえ。片づけてもらっちゃって」

「いいえ。でもね、できれば整理整頓できたところをまた散らかすのは控えてほしいわ」

「なんつーかすいません」

 洋服ダンスの周辺をきれいにし終わったところで、エリカは再び記録を読み込むことに専念した。再び椅子にちょんと座って、小さな手でページをめくっていく。膝の上に乗せた記録は、あと半分で読み終わる。

 記録には、『月』に関する基本的な情報から、教団の成り立ち、何をしてきたかがこと細かに記録されている。エリカの知的好奇心を満たすには充足した情報だ。

 たとえば、彼ら信徒たちの特徴。出生が最近であればあるほど、信徒たちの身体的特徴は平坦になっているという。極端に言えば、彼らには「男性」「女性」の区別がない。男性であるあかし、女性であるあかしを持っていない。男でも女でもないのだ。だから生殖機能も欠落している。ではどうやって子供が生まれるかと言えば、それは科学的技術によるものだ。今では、男女の性交渉なしに子供を作ることが可能らしい。外の世界でも、そういった技術はその気になればできる。しかし、『月』のように徹底ししてはいない。

「ヨハン」

「うん?」

 ヨハンは声だけをエリカによこす。

「この部分なんだけど、性別がないってところ」

「なになに」

「完全に性別のない子供って、今どれくらいいるの、信徒の中で?」

「そうねえ……去年のデータだと、信徒の三分の一は無性だね。年々増えてんのよ、男でも女でもないのが。……ここにしまいこんだんだっけか?」

「逆に、性別のある信徒は年々減ってるってことよね」

「そゆこと」

「そうなると、男性女性の信徒って、貴重にならない?」

「君、なかなか察しがいいね。『月』の信徒にとっては、『月』という教団が世界そのものだから、逆に男か女かはっきりしてる人間のことを珍しがる。外の世界じゃ無性のが貴重だけどね。奴らの最終目標は、楽園時代に戻ることなのさ、外の世界もぜんぶひっくるめて」

「楽園時代っていうと……人間の自立のお話の?」

「その通り。君って勤勉だねえ。ガキが全員君みたいな子だったら、教師も楽だろうに」

 楽園時代という話はエリカもコーデリアから聞いていた。

 もともと、世界は全知全能の神によって創られた。神の創った楽園に、男女の人間が一組住んでいた。楽園の中では、飢えることも病むこともなかった。ただ神の掌の中で、幸せを感じ生きていたという。その楽園には、一つの決まりごとがあった。楽園の中央にある知恵の木になる実は食べてはいけないということだけだ。二人はそれをきちんと守っていた。ところが、ある日、人間の一人が蛇にそそのかされて、知恵の実を口にしてしまった。その実を食べた途端、人間は自分が全裸であることに気づき、葉で身を隠すようになった。もう一人の人間も木の実を食べ、同じように葉で体を隠すようにした。

 神が楽園へ訪れた日、人間二人が木の実を食べてしまったことが知られた。掟に背いた人間に神は怒り、人間二人を楽園から追放し、生涯の罪を背負わせた。労働と出産という苦難を与えた。

 これは、外の世界に伝わる世界創造の話の一つだ。コーデリアからは、これとは別の世界創造の話を教えてもらっていた。中には、巨人から世界の構造を創ったというものもあれば、神が世界を生んだというものもある。ヨハンは楽園時代と呼ばれる世界創造の話を、何も見ずにすらすらと話してみせた。

「まあ、楽園にいたころの人間って二人しかいないわけだけど。『月』は楽園に思いを馳せてんのさ。少なくともそこでは考えることも飢えることも病気になることも自ら行動することもない、究極的にラクだったからな」

「『月』が性別をなくしたがるのも、楽園時代と関係あるの?」

「あるよ。楽園から追放された人間二人の内一人は、出産の苦難を与えられたっしょ。『月』は出産も苦難として認識してるんだよ。楽園時代は出産なんてなかったわけじゃん? ついでに性別もなけりゃあ、出産自体に苦しむ機会がなくなるわけだ。男も女もとっぱらってしまえば苦難そのものが存在しなくなるって考えたんよ」

「そう……」

 エリカは力のこもっていない相槌を打った。コーデリアから、男女の差があるのは、男性だからこそできること、女性だからこそできることがあると聞いた。両方、違いがあるからこそ素晴らしさもあると。その素晴らしさを、少しではあるが感じてきたエリカにしてみれば、自分から性別を捨てることが理解できなかった。

 気が滅入りそうだったので、さっさと別の情報を読むことにした。次のページをめくると、何かが栞代わりに挟まれていた。

「あら?」

 サイズこそ栞にふさわしかったが、それはあまりに薄い。ひょいっと指でつまんでみる。今にも風に吹かれて飛ばされそうだ。そこには、エリカの知らない、見慣れない複雑な文字が黒インクで書かれていた。

「ヨハン、これ、何?」

 ヨハンはようやくこちらに目を向けた。ずんずんとエリカに近づいて、エリカがつまんでいる薄い紙を確認した。あっと、目を見開く。

「それだ」

「何が?」

「探し物はソレでした」

 エリカから優しく取り上げると、ヨハンはエリカの頭をぽんぽん撫でた。

「そーだよこれだよ~! 薄っぺらいことこの上なかったからテキトーにどっかに挟んどいたんだよ」

「……そう」

 ヨハンの適当ぶりには呆れるが、探し物が見つかってよかったと、エリカはそう思うことにした。


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