第39話 水を買える者
朝露の残る石畳で、倉庫裏口へ寄せられた荷車の車輪だけが乾いていた。
カイルは正門前にエリナとサーラを残し、王都監察官と裏手へ回った。昨夜、地下の秘密管がこの倉庫へ水を送ることは、職人印と流量札、配管工本人の証言で確かめてある。今朝は倉庫の中を検査し、下町から夜ごと消える水を止めるはずだった。
それが失敗すれば、次の夜までに証拠は運び出される。共同栓の水も、また最低線を割る。
荷台には空箱が六つ。御者が一人、荷運び人が二人。裏口から表通りへ抜ける道は一本だった。
「開門前の返品準備です」
商会代理人は青い綴じ紐の契約書を胸元へ抱えた。言葉は丁寧だが、荷車を戻す気配はない。
「返品先と積荷目録を」
「私有地での商取引です。アルヴェーン公にお答えする義務はありません」
公爵権限で門を開けと命じれば、扉は今すぐ動くだろう。だが、他領の私有財産を力で押さえれば倉庫内の物まで違法な押収だと争われ、証拠を欲しがるほど相手の逃げ道を増やすことになる。
手袋を外した。
「監察官。門、裏口、荷車の位置と時刻を記録してください。箱は開けない。車輪も止めない。ただし、動いた時刻と行き先は残す」
「荷車を出すおつもりですか」
エリナが裏角から歩いてくる。地下で夜を明かした顔には、まだ薄い疲れがあった。
「今ここでは止めない。正午までに、裁判所へ止める責任を渡す」
サーラが御者の靴を見た。
「返品にしちゃ、荷車だけ先に飯を食った顔だね」
御者は黙って手綱を握り直した。
正門の商会印、裏口の錠、荷車の轍へ、監察官が順に時刻札を当てる。代理人は契約書を開かなかった。青い紐の結び目へ親指を置いたまま、門の内側へ下がる。
カイルは人数をもう一度数え、法廷へ向かう馬車を呼んだ。
◇
午後の王都公開法廷には、商会の会計係より先に、下町の住民代表が座っていた。
女は乾いた水筒を膝へ抱え、傍聴席の出口に近い席を選んでいる。朝から待っていたらしい。商会の雇用を失うかもしれない荷運び人たちは、反対側の壁際に固まっていた。
開廷。
「申立人は、保全仮処分を求めています」
本裁判を待つ間に、水も倉庫の中身も動かされては遅い。今だけ取水を絞り、封印し、立会検査まで繋ぐ。そのための仮の命令だ。
商会代理人は青い紐を解き、長期購入契約を机いっぱいに広げた。
「当商会は二十年分の水を正規に購入しています。倉庫も管も私有財産です。取水を止めれば四百人の雇用と王都の税収が損なわれます」
「全面停止は求めていない」
カイルは申立書を一枚抜いた。書記が用意した全面没収案だった。
追っていた目が止まる。
「残す請求は三つです。今夜の取水上限、夜間弁の封印、明朝の立会検査」
法廷後方の扉が開く。
ヴェルク宰相は供を一人だけ連れて空いていた中央席へ座り、人の名には目もくれず、商会が提出した税収表へ目を落とした。
「一地区の不便を避けるために、水運と倉庫業を止めれば、王都全体が損をします。配分には全体最適が必要でしょう」
声は穏やかだった。乾いた水筒が、女の膝の上でわずかに鳴る。
「商会は王都へ利益と職を供給しています。ここで契約を弱めれば、他の長期契約も信用を失う」
カイルは契約書を引き寄せた。
「だから、契約を守る範囲を確かめます」
青い紐のそばに、三枚の紙を置く。下町二地区の実測流量、夜間弁の流量札、地下で写した商会印。
最後に、契約本文の一行へ裸の指を置いた。
渇水時には、影響地区の最低生活水を先に確保すること。
「この条項に基づいて売買できるのは余剰水です」
「共同栓の不足が、当商会の取水によるものとは限りません」
代理人が返す。
エリナが圧力表を裁判官へ渡した。
「夜の鐘で秘密管が開いた時刻と、共同栓が最低線を割った時刻は一致します。昨夜の封鎖時刻からは、まだ取水を止めていません。今夜、弁を封印した後の水線も比較できます」
「一晩の測定で二十年契約を――」
「二十年契約は残します」
カイルは抜いた没収案を裏返した。
「買ったのは余剰水だ。人が飲む分までではない」
ヴェルクが初めて顔を上げた。
「生命という言葉で、どこまでも私権を狭められますか」
「狭める場所を、この契約が書いている」
声を低くした。怒りに任せて一歩広く求めれば父がしたことと同じになるから、必要な線だけを、必要な者の前で引く。
「商会の販売は止めない。雇用も税収も、ここでは裁かない。下町二地区の最低量を割る取水だけを今夜から止め、証拠を明朝まで動かせなくする。それ以上は、本裁判で争ってください」
裁判官は三枚の紙と契約条項を読み直した。
代理人の指が、青い紐の結び目を探った。全面没収の紙は裏返され、契約本文は机に残っている。口は開いたが、言葉は出なかった。
木槌が一度鳴る。
「取水量を、影響地区の最低生活水を確保できる上限まで制限する。夜間弁は執行官が封印し、商会倉庫は明朝一番鐘、両当事者と監察官の立会いで検査する」
乾いた水筒を抱えていた女が、蓋をきつく閉め直した。
女の膝には、蓋を閉めたままの水筒がある。
◇
夕方、下町の共同栓には炊事桶が三列に並んでいた。
執行官が夜間弁へ封印を付ける。圧力計の針が上がり、栓の奥で空気が短く吐き出された。
最初の水が、空桶の底を叩く。
高い音だった。
子どもが手を伸ばしかけ、母親に袖を引かれる。エリナが計量棒を入れ、濡れた線を住民代表へ向けた。
「最低線を越えました。夜半と朝鐘にも測ってください」
「ああ。戻ったって話だけじゃ、明日の飯は炊けないからね」
女は礼を言わず、当番表へ夜半の担当名を書いた。カイルも礼を求めなかった。列の最後にいる、片腕で桶を抱えた老人へ運搬係を回す。
今夜の水は戻った。朝まで続くかは、住民自身の記録が決める。
女は満ちた桶を列の後ろへ送り、夜半の測定欄へ最初の印を入れた。
◇
商会倉庫の正門では、執行官が裁判所の封蝋を温めていた。
代理人は青い綴じ紐の契約書をもう一度掲げる。
「異議は継続します。封印で生じた損失は請求します」
「異議と損失も記録してください」
カイルは門の両脇、裏口へ回る路地、屋根の明かり窓を順に見た。監察官二人と執行官一人、交代の夜番四人なら、商会の者を倉庫へ閉じ込めず逃げ道だけを塞げる。
朝の荷車は、門前に残されたままだった。空箱には封鎖時刻札が付き、御者はもういない。
封蝋が扉と錠の境へ落ちる。執行官は裁判所印を押し、命令の写しを封印台へ固定した。その下で、契約書の青い紐が風に揺れた。
「開封は明朝一番鐘。商会、申立人、監察官の三者立会いです」
まだ温かい蝋から、細い煙が上がっていた。




