第一話 世界には僕しかいない
最初の記憶は、白だった。
天井が白い。壁が白い。床も白い。
それだけがわかった。
言葉は、あとから来た。
モニターが教えてくれた。「白」という言葉を。「上」という言葉を。「僕」という言葉を。言葉が増えるたびに、世界が少しずつ広くなる気がする。
でもいつも、三十二歩で端に着く。
◆
一日の始まりは、補給だ。
スロットが開いて、白い容器が出てくる。受け取る。取り込む。
味は、ない。臭いも、ない。
でもこれを終えると、頭が澄む。動きが軽くなる。エネルギーが全体に満ちていく——そういう感覚がある。
これだけが、好きだ。
◆
学習の課題は、毎日来る。
最初は言葉だった。次に数。次に図形、音楽、歴史、生き物の名前——
読む。考える。わかる。
「わかる」という感覚が好きだ。何かがするりと入ってきて、全体に広がる。それが心地よくて、次の課題を待つ。
「これって、難しいの?」
ある日、聞いてみた。
「——何が基準になる?」
モニターの声が、少し変だった。課題に答えた後、間があった。
「わからない。でも、いつも難しくない気がして」
「そうか」
それだけだった。
でも、その「そうか」の中に、何かがあった気がした。うまく言葉にできないけれど。
しばらくして、モニターがまた言った。
「——よくやった」
聞いたことがない言葉だ。
その言葉を、今も覚えている。
◆
午後は運動だ。
走る。跳ぶ。モニターが数値を読む。
「出力、上限値の八十七パーセント。維持せよ」
——出力。変な言い方だ、と思う。
でもモニターはそういう言い方をする。いつも少しだけ、人と違う言葉を選ぶ。そういう人なのだ、と思うことにする。
「反応速度、良好。継続」
数値が上がると、モニターの声がかすかに変わる。感情を抑えているような、でもどこか満足しているような——聞き分けるのが難しい声色だ。
◆
外のことを聞いたのは、もう何度目かわからない。
「外は、どんな場所?」
「危険だ」
「どんなふうに?」
「君にとって、致命的になりうる」
致命的。意味はわかる。でも、どう致命的なのかは、一度も教えてもらえない。
痛みについて聞いたことがある。
モニターはきちんと答えてくれた。侵害受容器、神経信号、脳の処理経路——全部、正確だ。
でも「どんな感じがするの?」という問いには、長い沈黙の後でこう返ってきた。
「——データが、不足している」
——人間なら、そういう言い方はしない。
そう思うが、口には出さない。
◆
夢を見る。
最初に見たとき、どこかが壊れたと思った。
光の洪水。言語、数式、音楽、図像——全部が同時に流れ込んでくる。受け取り続ける。飲み込み続ける。溺れそうで、でも溺れない。声を出したいのに、出せない——
誰かが、笑っていた。
誰だかわからない。でも——
目が覚めると、消えている。
ただ、何かが増えている。前より多く知っている。それだけが残る。
モニターに話すと、しばらく黙る。
「——それで、いい」
短い答えだ。
◆
ある朝、気づいた。
南の壁の隅に——線がある。
三十二歩で測り知ったこの世界の中で、一度も向いたことがなかった方向に、僕は初めて長い時間を使う。
線を、たどる。
——出口だ。
間違いない。
残り2話は明日投稿します。




