第三話 迷子の怪物
ここから視点が変わります。
□■???
可愛い猫がいた。
それはもうとびっきり、可愛い猫がいた。
思わず撫でまわしたくなって、周りを気にせず追いかけてしまった結果が、今目の前に広がっている事態の元凶だ。
後悔はない。
猫が可愛かったのがいけないのだ。
可愛さとはそれだけで罪なのだ。
だがその猫はもう見えない。
追いかけた先で邪魔が入ったからだ。
あと少しで手が届きそうだったというところで邪魔が入り、今も目の前に立ち塞がっているのだ。
(さて、どうしてやろうかのぅ)
若干ご立腹気味な心境で、天眼美咲は不敵な笑みを浮かべる。
「おい嬢ちゃん、こんな所に一人でどうしたんだい?」
「迷子になっちまったのか? それならお兄さんたちが送ってあげるぜぇ」
傍から聞けば、なんとも親切な申し出に聞こえるかもしれないが、そんな台詞も、目の前でたたずむ男たちの表情を見てしまえば、虚しくなることこの上ない。
彼らの表情には、ありありと欲望の色が透けて見えるのだから。
しかも逃がすつもりもないのか、他の仲間たちが後ろを塞ぐ念の入れようである。
(十五の乙女に一体何を求めておるのかのぅ。まぁ妾の場合、もっと幼く見えるのかもしれぬが……もう少し背があれば、あと胸も……希望はまだ残っているはずじゃ!)
思い出したくもないことを思い出してしまった美咲は、それを忘れるようにこれからの成長に思いをはせる。
そんなどうでもいいことを考えている間に、男たちはさらに美咲に迫って顔を近づけてくる。
「あぁん。なんか言ったらどうだ」
「俺たちを困らせるなんて、悪い子だなぁ。ギャハハハ」
「うるさいのぅ」
「「…………」」
男たちの発言の直後、美咲はこれまた鬱陶しそうな表情で言葉を続ける。
「うるさいと言うておる。さっきから耳元でギャーギャー、ギャーギャーと。ちゃんと聞こえておるわ! まったく、年甲斐もなく乙女を攫おうとしおって……妾はただ猫を追いかけておっただけじゃというのに……あと少しであのモフモフを触れたというのに…………お主ら、覚悟はできているのじゃろうなぁ」
途中から猫に触れなかったことへの怒りを前面に出して、美咲は男たちを睨みつける。
男たちの方はまるで、幼く見える少女から上から目線な物言いをされて、脳が状況に追い付けていないような表情を浮かべるが、少し経って、美咲の言葉を理解したのか、その額にはよく見える青筋を浮かべていた。
「おいガキ! 状況が理解できていねぇのか? どうやら痛い目に会いたいらしいな!」
周りにいた男たちは、徐々に美咲に近づいてきて、その包囲を狭めていく。
「ハッ! その言葉、そっくりそのまま返すぞ。今すぐこの場から立ち去るというのなら、見逃してやってもよい。どうするかはお主たち次第じゃ」
「……なめた口利いてんじゃねぇぞ!」
男の一人が美咲に向かって殴りかかろうと迫る。
男たちは全部で六人。人数的にも体格差的にも、美咲の方が圧倒的に不利に見えるだろう。
だが……
(隙だらけじゃ)
美咲と男たちとでは、圧倒的に魔力量の桁が違うのだ。
それを実際に確かめていた美咲にとって、男の攻撃を恐れる道理などない。
その結果はすぐに現実となって表れる。
魔力によって高められた身体能力を使って、懐に飛び込んだ美咲は、男の顎めがけて拳を食らわせる。
「ガハッ!」
狙いすました拳は正確に男の顎下を捉え、一瞬だけ空中に浮かせると、男はそのまま事切れたかのように地面に倒れた。
「「「「「…………」」」」」
その光景に、男たち全員が動きを止める。
有り得ないものでも見たかのような表情を浮かべる男たちに対して、美咲は最後の警告を飛ばす。
「これで分かったじゃろ。今すぐ引けば追いはせん。妾も今ので、幾分気が晴れたからのぅ」
美咲はそう言うと、男たちの様子を見回す。
これで引いてくれれば何も問題ないわけだが、どうもその様子はないようだった。
(まぁそうじゃろうな。こういった輩ほど、最後まで引かぬからのぅ)
美咲は呆れを含んだ溜息をこぼしながら、第二戦に向けて構えを取る。
少々面倒ではあるが、魔法を持たない男たちでは、美咲に勝てる道理はない。
もっとも、今の美咲も見ることにしか魔法が使えないため、あまり関係はないのかもしれないが、身体能力だけで十分に撃退は可能だろう。
互いに緊張が高まり、再び衝突しようとした瞬間――
「!」
――突然、美咲の体が動かなくなった。
「なん……じゃ……」
唇が震え、呼吸が乱れ、脚が竦んで踏ん張りがきかなくなる。
まるで恐ろしい何かがじっとこちらを見ているかのように。
決して関わってはいけない存在が、まるで自分を狙いっているかのように。
そんな視線が、優しく自分の頬を撫でるような様を、美咲は確かに幻視した。
「おいおい、さっきまでの威勢はどうした?」
「ようやく状況を理解できたみてぇだな。全く手間を取らせやがって」
「調子に乗ったやつにはお仕置きしねぇとなぁ」
「まったく肝を冷やされたぜ。おい! 大丈夫か?」
「ハハッ! もしかしてチビッちまったか?」
男たちが何か言っているような気がするが、今の美咲には届いていない。
頭の中が恐怖の色で染まり、息苦しさに胸を押さえながら、崩れそうになる体を必死になって、二本の脚で支える。
コンッ!
「!」
その時、美咲たちのいる路地裏に、乾いた靴音が響いた。
コンッ! コンッ!
まるで挑発するようにわざと鳴らされているかに思えるその足音は、次第に大きくなって近づいてくる。
同時に、視線の気配も一緒になって美咲の後ろから近づいてくる。
振り向けない。
振り向けるはずがない。振りむいてしまったら、そこで終わってしまいそうだったから。
コンッ!…………
足音が止み、その気配は美咲の後ろの方で止まった。
男たちの方も、その乱入者の存在に気づいたのか幾人かの意識が美咲から離れていく。
「おい、なんだお前?」
男の一人がその存在に向けてガンを飛ばす。
その時になってようやく、美咲は何とか意識を落ち着かせて、首を回して後ろに振り返ることができた。
そしてその存在を視界の中に収めた瞬間――
「!…………」
――美咲は言葉を失った。
そこにいたのは、一人の青年だ。
夜を思わせる深い青色の髪に、白と黒を混ぜた灰色の瞳。
整えられた顔立ちからは、どこか気品さえも感じられる。
だが美咲の目に映るのは、それだけではない。
美咲の魔法――他者の魔法を読み解く《魔法解析》の魔眼は、彼の深淵の一端を映し出していた。
(なんじゃ……こやつは!?)
美咲の目に映ったのは、圧倒的な魔力量と、それによって構成された圧倒的な力の権化。
その姿はまさしく、人の形をした“怪物”だった。
「…………」
青年は男の問いかけには答えない。
ただその場にいる面々の一人一人へと視線を向けていく。
そして何かを思ったのか、青年は徐にその口を開く。
「邪魔だな」
青年は端的にそう言った。
一瞬、何を言っているのかわからなかったが、すぐに美咲たちが、狭い路地を塞いでいることに気づく。
確かにこれでは、横を通るのも難しいだろう。
「あ? 何言ってんだお前? 口の利き方がなってねぇみてぇだなぁ」
「さっさとそこを退け。邪魔だ」
「! いい気になるなよクソが!」
青年の態度に堪忍袋の緒が切れたのか、男は青年に向かって殴りかかろうとする。
だが男の拳は、青年が軽く首を傾けることで空を切る。
その後も男は果敢に青年を殴り飛ばそうと拳を振るい続けるが、一向に拳が青年に当たることはない。
体幹も全くぶれた様子もなく、まるで遊んでいるかのように躱し続けている。
実際男の方はそのように思ったのか、次第にその顔を歪ませていく。
「……こんなものか」
青年はそれがただ事実だとでもいうように男を見つめる。
その目がさらに男の矜持を傷つけたのか、もはや投げやり気味に青年に向かって襲い掛かる。
「クソがあぁぁぁ!」
その瞬間、すべてが終わった。
本当に今までのが、お遊びだったとでも言うように、ただの一撃で男は地面に倒れ伏した。
「兄貴!」
「野郎!」
その光景を目の当たりにした男たちは一斉に青年に対して敵意を露にする。
それに対して青年は、どこか涼しげな表情で残りの男たちの方を見る。
「来るなら全員で来い。その方が楽だ」
「いい気になるなよ、ガキが!」
そこから再び男たちと青年の戦いが始まったが、僅か五秒足らずで終結した。
綺麗に一撃ずつ、青年の流れるように放たれた拳と蹴りによって、男たちは例外なく地面に倒れ伏した。
「ふぅ……さて」
「!」
青年は自然と、残った美咲の方へと視線を向けてくる。
何か言わなければと衝動が起きるが、頭が真っ白になって上手く言葉が出てこない。
だがそうこうしている間にも、青年は美咲の方へと歩み寄ってくる。
――死――
それを意識した瞬間、美咲は無意識にその目を固く閉じた。
とても長く感じられる時間が過ぎるが、一向に想定していた結末は訪れない。
代わりに後ろからくぐもった悲鳴が、美咲の耳に届いた。
(?)
美咲は恐る恐る目を開けて、後ろへと振り返る。
するとそこでは、青年が最初に美咲が倒した男の横で、何やら懐を漁っている様子が見て取れた。
自分には何もする気がないのだとわかり、美咲はその時になってようやく、自分が地面に座り込んでいることに気づいた。
だがまだ思考ははっきりしておらず、美咲は半ば放心した状態で、青年が他の男たちの懐を漁るのをただじっと眺めた。
「――こんなものか」
青年は最後の一人の物色を終えると、立ち上がって再び美咲の方を見る。
「いつまでそこにいる気だ?」
「!…………」
青年の問いかけに、美咲はようやく意識を覚醒させて頭を働かせる。
ゆっくりと力を入れて立ち上がり、真っすぐと青年の方を見る。
「お主はいったい……何者なのじゃ」
言った瞬間に美咲は激しく後悔した。
もっと他に言うべきことがあったはずなのに、よりにもよって一歩間違えれば危険な質問をしてしまったのだから。
だが当の本人は、特に気にした様子もなく美咲の質問に答える。
「何者なのか、ねぇ…………何者なんだろうな」
「?……」
青年の返答は、どこか曖昧だった。
まるで本当に自分の正体がわかっていないかのような。
世界から与えられた名を突然失くして、そのまま路頭に迷いこんでしまったかのような。
そんな風に美咲には見えた。
「お前には、俺が何に見えるのかね」
だからだろうか。
唐突に聞かれたその質問に、美咲は最初に抱いた恐怖など忘れて自然と答えていた。
「迷子かのぅ」
「…………」
美咲が答えると、二人の間で何とも言い難い静寂な空気が流れる。
だが少しの時間が経ったところで、小さな笑い声が路地裏に響いた。
「アッハハハハ! なるほど迷子か。確かに言い得て妙だな。ハハッ!」
青年は美咲の答えがお気に召したのか、少しの間、腹を抱えながら笑っていた。
そして落ち着いたところで、再び青年は美咲と視線を合わせる。
「ハァ…………さて。じゃあ俺はもう行くよ。お前は早く家に帰りな」
青年はそう言うと、踵を返してその場から立ち去ろうとする。
だがこの時になってようやく、美咲は目の前の青年が危険人物であることを思い出した。
「! 待つのじゃ! お主は、これからどうするつもりなのじゃ!」
美咲の問いかけに、青年はその足を止める。
「……さぁな。取り敢えず、この世界で生きてみてから考えることにするよ。何せ迷子だからな」
青年は振り返って美咲の方を見ると、そのまま路地裏の奥へと消えていった。
最後に、まるで孤独を噛み締めたような笑みを浮かべて……