27 くるくる回る世界
(^_^ゞ
タツミの人生なんてろくなもんじゃなかった。
***
校舎の窓に大きな夕日が浮かんでいる。
中学三年生の教室、一人居残ったタツミは空白ばかりの数学プリントを前にため息をついた。
宿題を終わらせてから帰りたかったのに。解き方が分からない。もう下校時刻が迫っている。
タツミは勉強が苦手だ。
たいてい朝ご飯を食べないまま学校へ来るから、空腹のタツミはいつもぼんやりとしている。授業もぼんやり聞き流している。
お昼の給食は天国だ。余ったおかずをタツミがおかわりして食べても誰も怒らない。
急激にお腹の満ちたタツミは睡魔に襲われる。うつらうつらして午後の授業も聞き逃す。
小学生のときからそんなことをしていれば、授業についていけなくなって当たり前だった。
国語も数学も理科も社会も魔術も体育も。ぼんやりしたタツミは全部落ちこぼれている。
下校時間を報せる放送が流れ、タツミの肩は跳ねた。
帰らなくてはいけない。
プリントや教科書を机に突っこみ、筆箱だけカバンへ放り込む。
そうしてタツミは席を立った。
秋の日没は早い。
重い足を動かし、帰りたくない家への道をたどる。
夏になれば、受験だ。
でも学力試験も魔力試験も散々で、タツミの行ける高校があるだろうか。
もしどこも受からなかったら。兄になんと言われるか。
先のことを考えると憂鬱だった。
着いてしまった家の玄関、そっとレバーに手をかける。
鍵はかかっていなくて扉はすんなり開いた。締め出されてはいなかった。
母親の機嫌が悪くないらしいことにちょっと安堵する。
「ただい、まー……」
そうっと声をかけて中の様子を探る。
兄はまだ仕事から帰っていないようだ。
そろそろと中へ入る。
この時間、母がいるならキッチンかリビングだろう。
覗いたリビングに母親の姿を見つけた。
「あ、の。ただいまもどり、ました」
母親からの返事はない。母はタツミの顔を見ることすらせず、あたかもタツミなどいないかのようだった。
あ、やっぱり今日は機嫌がいい。無視されたタツミはほっと息をつく。
機嫌が悪ければ辛辣な嫌みを言われたり叩かれたりする。だからタツミは、無視される日は機嫌がいい日なのだろうと思っている。
タツミは荷物をおいている納戸へ行って制服を着替えた。そのままなかへ潜って丸くうずくまる。
このまま夜になるまで待つつもりだった。
兄が帰宅して。母と兄が夕食を食べて。片付けて。くつろいで。シャワーへ行って。自室へ戻って。
薄闇のなかで時間をひとつひとつ数えた。
もういいだろうか。
ずいぶんと時間を待ってからタツミはもそもそと納戸を抜け出した。
食べられるものがないか探しにキッチンへいく。
鍋に夕飯のフェセジャンがあった。少しなら食べてもいいだろう。なにか器。
ごとごと音をたてていたせいで兄に見つかった。
「タツミ」
兄は恐い人だ。
冷めた目がタツミを見ている。タツミの目は泳いだ。
「あ、の。おかえりなさい」
「なにをしてる?」
びくりと震えてタツミはお玉から手を離した。
「あの、俺、ご飯、食べたくて」
ため息をつかれ、タツミは縮こまる。
兄はつかつかと寄ってくるとタツミから器を奪った。
フェセジャンをよそい、器を持ったままタツミを冷たく見下ろす。
「“無能のくせに”」
怒りも憎しみもこもってはいない、無感情な声がタツミに言い聞かせるように言う。
「“無能のくせにご飯を食べてすみません”」
「ぁ」
タツミを見る兄の目は小揺るぎもしない。
タツミは凍える口を開いた。
「あの。無能のくせにご飯、食べてすみません」
乱暴にフェセジャンを突き出され、タツミは両手で受け取る。
「食べたら片付けて、さっさと寝ろ」
出ていく兄の背に向かってタツミはこくこくうなずいた。
なぜだろう。タツミの心はしくしくする。せっかく食べているご飯も味がよく分からない。
ただ空腹を癒すためにタツミはフェセジャンをかきこんだ。
今日は母の機嫌がよかった。ちゃんとご飯を食べさせてもらえた。いい日だ。そう思えばいい。
腹が満ちる前に食べ終わり、器を洗って元の通り返した。
納戸から毛布を引っ張り出す。もう納戸はタツミが寝るには狭すぎる。寝床を求めてタツミはうろついた。
玄関はそろそろ寒い。キッチンは朝に母が来る。客間へタツミが入ったら怒られる。
リビングの隅で猫のミシュリーヌさんが寝ていた。くぷくぷと穏やかな寝息をたてている。
タツミは猫ベッドの横にそっと座り込んだ。人の気配を気取ったミシュリーヌさんが片目を開く。タツミを見て、でも嫌がることなく耳を微かに動かした。
ミシュリーヌさんに背中を預けてタツミは毛布にくるまる。
今夜はここで寝よう。
明日は学校で、昼は給食が食べられる。宿題は、できていないけれど。
ミシュリーヌさんの寝息を聞きながら、ほどなく浅い眠りが訪れた。
***
冷たい水を浴びせられて目が覚めた。
家のリビングで眠りについたのは、ああ夢か。そう気づいてほっとする。
ほっとしてすぐ、タツミは自分が安堵できる状況でなかったことを思い出した。
薄暗い地下。手足を縛られて木の椅子に座らされている。ぽたぽたと前髪から落ちる滴のむこう、柄の悪い男たちがタツミを囲んでいる。
伸びてきた手があごを掴み、タツミは手荒に顔を上げられた。
「おはよう。タツミくん」
かすむ視界に迫った男が言う。
「そろそろ契約書にサインする気になっただろう?」
声を出すだけの気力もないタツミは、かろうじて顔を横に振って拒否する。あごを掴む手に力が加わった。
「Hrryfywy」
短い術式。空気がチリッと鳴り、タツミの皮膚を幾筋も切り裂く。鋭い痛みにタツミは身をよじった。
濡れた服に血がにじんでいく。傷は浅く血はすぐに止まるのだが、何度も切り裂かれたため全身が血に染まっている。
息をするだけでじくじくと傷は傷んだ。
どれぐらいの時間が経ったかもタツミには分からない。
圧迫に抗い、 痛みに耐え、空腹を感じ、タツミは体力も魔力も尽きようとしている。
男が手を離すと、タツミのあごは力なく落ちた。
しかし、案外なタツミの頑固さに手を焼いているのは、むしろロンザリ一家のほうだった。
簡単に籠絡できるだろうと踏んでいた少年は、脅そうが宥めようが痛めつけようが、言いなりになる気配がない。
彼らとしては、甘言でもって隷属誓約書にサインさせられればそれで済むはずだった。
そうして紋衣を持ってこさせて、その後は当然金をやるつもりも、まして仕事を見つけてやるつもりもない。隷属させたままこき使うなり売るなりすればいい。はずだった。
タツミは頑としてサインしようとしない。
ならば他の使い道を模索するか。
タツミを装って連絡し、あの防御力の高い工房から工房長を一人で誘きだせれば。あるいは交渉の余地が開けるのではないか。
そう考えてタツミの鞄を漁ってみたが。
「……なんでお前は通信具の一つも持ってない……?」
いまどき誰でも持っているであろう、連絡用の魔導紋を仕込んだ道具の類いが持ち物にない。
お金も魔力もないタツミが高度な魔導具を持っているはずがなかった。
「ならば工房長の連絡紋でも吐け」
タツミは答えない。というか、答えられない。
魔力がゼロのクヅキも当然そんなもの持ってなかった。
「他の誰のでもいい。知っている連絡先を吐け」
たぶんライドウやブロッサは持っているだろう。でもタツミは知らなかった。
「……使えないやつだな」
とんでもないやつを拉致ってしまったのではないか。という気がし始めている。
「もういい。なんでもいいから工房長一人を呼び出す方法を考えろ。うまいこと誘き出せればお前は家に帰してやる」
ぼうっとしていたタツミは、「帰してやる」の一言に反応して顔を上げた。
ようやく反応を見せたタツミに男は畳み掛けた。
「そうだ。家に帰りたいだろう?」
あ、違う。とタツミは思った。
タツミはあの家には帰りたくない。
このしんどい状況から自由になりたい。でもタツミが助かればいい、わけではない。
タツミを迎え入れてくれる場所、タツミが居てもいい場所。工房を失いたくないから、タツミは頑張って抗っている。
「ただ工房長を呼び出すだけでいいんだ。それぐらいできるだろう?」
ただクヅキを呼ぶだけ。タツミはぼんやり考える。
クヅキを呼んだら、助けに来てくれるだろうか。
来てくれないだろうな、とタツミは思った。
どう考えてもクヅキにタツミを助けに来る理由がない。タツミにそんな価値があるはずない。
だいたい、クヅキをそんな危ない目に遭わせるわけにはいかない。
だってクヅキは魔力がないから、強いようでいて、でもとても弱いのだ。タツミは知っている。
無能なタツミにできることは少ない。でもこうしてクヅキと工房を守ることはできる。
最後の力をふりしぼってタツミは少しだけ笑った。
***
また二階へ降りてきたクヅキを見てライドウは片眉をあげた。
大した用もなく、クヅキはただうろうろしている。よほど姿を見せないタツミが気になるらしい。
考えてみれば、これまでクヅキの身近に同世代同性の人間というのは少なかった。
もしかするとタツミはクヅキにとって初めてできたお友達、なのかもしれない。
そう思って見ている分にはライドウは面白いが、部屋のなかを意味もなくうろつかれるのは鬱陶しかった。
「おい、クヅキ」
「んー」
ろくな返事を寄越さず、カウンターをごそごそ散らかしている。
「タツミはまだ来てないぞ」
「……知ってるよ」
むっとした声が返ってきた。
タツミのことを気にしているくせに、話を振られると妙に素っ気ないフリをする。精神が幼稚園児並だ。
面倒だからライドウは放っておくことにする。
「ねぇ、ちょっと」
今度はブロッサが飛び込んできた。
「タツミって今日は来てないの?」
「……お前もか」
ライドウはうんざりした。
やはり不機嫌そうにクヅキが答える。
「まだ来てない」
「なに、今日は来ないの?」
「……知らん」
クヅキの声はさらにむくれる。
「来ないのかなぁ。せっかくデザインの直し描いたのに」
ブロッサはデザイン帳持っている。とにかく早くタツミに見せたいらしい。
「あーあ。タツミ早く来ればいいのに」
二人して入り口を眺めはじめる。
そんなことしてたってタツミが来るわけではない。仕事に戻れよ、とライドウが言いかけたとき、戸口に人影が揺らいだ。
二人がタツミかと色めくが、なんのことはない、姿を見せたのは大家だった。
「お邪魔するわ。あら」
入ってきた大家は、居並ぶ不機嫌な顔を見て心外そうな声を上げた。
「お生憎様ね」
「……そういうわけじゃ、ないですけど」
ぶっきらぼうにクヅキが答える。
「なにかご用ですか?」
大家が上へ来るのは珍しい。
でも家賃はちゃんと払っているし、今日は死体を捨てたりもしていないはずだ。
大家は本心の読めない笑みを浮かべた。
「この間のあの新人の子。あの子、今日は来ているのかしら?」
大家もタツミ目当てらしい。
お前もかよ、とつぶやくライドウをすっぱり無視して、大家はクヅキに問う。
一体大家がタツミになんの用だろうか。訝しく思いつつも、クヅキは正直に答えた。
「……まだ来てないですけど」
「あら、そう。やっぱり」
大家が頬に手を当てる。
なんだか嫌な感じだ。
「……やっぱりってなんですか、やっぱりって」
クヅキとブロッサに注視され、大家の笑みはますます深まる。
「昨日帰りがけのあの子にうちのパンを分けてあげたのよねぇ。……食べちゃったのかしら」
「食べちゃったのかしらじゃないでしょ!」
「なんてことしてくれんだよ、手出し無用って頼んだじゃないですか!」
クヅキとブロッサは慌てふためいた。
ライドウだけは興味がないのか雑誌を読みふけっている。
わたわたする二人を楽しんで、それから大家は満足げにうふっと笑った。
「ごめんなさい。嘘よ」
「……は? 嘘?」
「そう。いえ、むしろ親切かしら」
大家は言う。
「あの子にあげたパン、試作の失敗作だったから。食べてもなにも起きない、というかとんでもなく不味いだけのシロモノよ。もし食べたら、二度とパンが食べたくなくなるでしょうね。ね、親切でしょう?」
いたずらっぽい笑みを浮かべる大家は妖艶で、かつ美しい。
それがまたなんとも腹立たしい。
「そんな変なもの食べさせられて、タツミは腹でも壊したんじゃないですか」
クヅキが怒っても大家はまったく動じない。
「あら、とんでもなく不味いだけよ?」
「十分おかしくなるでしょうが、そんなもの」
「おい、クヅキ」
放っておくといつまでもクヅキがからかわれ続ける。止めるためにライドウは口を挟んだ。
「タツミはそのパン食べてないぞ」
ライドウには分かる。
タツミと交わした雇用契約書の条項だ。
一階のパン屋のパンは死んでも食べない。
もしそれをタツミが破れば、契約書を作ったライドウにはすぐに分かる。
しかし、今現在それは破られていない。
だから大家がタツミにパンをやったと言ってもライドウはなんら慌てる必要がないと知っていた。
「そもそも、タツミは約束破って食べるようなやつじゃないだろ」
信じてやれよと言われ、クヅキとブロッサはなるほどと思った。
タツミのことだ、お腹が空いたと言いながら律儀にパンを抱えて突っ立っているだろう。
「そうだな。タツミなら絶対食べてない」
大家はつまらなさそうに鼻を鳴らし、ライドウをにらんだ。相変わらず面白くない男だ。
「それだけの用ならさっさと帰れよ」
ライドウに邪険にされながらも、大家は再び勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あら。まだあるわ。本題はこれからなのよ」
わざわざ大家が訪ねてきてタツミの所在を確かめた理由がある。
「昨日、帰るあの子の後ろを三、四人のチンピラがつけていったわよ?」
タツミが角を曲がって見えなくなるまで大家はじっくり見ていたから知っていた。
「何人か前へ回り込もうとしていたし、あれは相当まずいことになったんじゃないかしら」
「ちょ! なんでそれ! 気づいたときにすぐ教えてくれなかったんですか!」
思わずクヅキは叫んだが、別に大家はタツミを心配して教えに来てくれたわけではないのだろう。
タツミのことなど正直どうでもよく、ただクヅキやライドウを驚かせて困らせたいだけに違いない。
大家はその驚いた顔を楽しげに眺めている。
(´ー`)ノ




