あの日のデート
精密検査の通知が届いていることに気づいたあの日、今までずっと考えないようにしていた「恋を叶える草紙」という存在を思い出してしまった私は、「いつか別れる」という冊子の予言のことが、気になって仕方なくなってしまった。
冊子は、本棚の片隅に今もなお差し込んである。私はそれを9年ぶりにそっと手に取り、中を開いた。
【二○二八年、九月六日。ちょうどぴったり十年後だよ】
「あと一年……か」
高校生の時は遥か彼方だと思っていた10年後の未来は、もう目と鼻の先……。たっちゃんは来年、この冊子通り過去の自分にメッセージを送ることになるんだろうか。もしこの内容が正しいのだとすれば、その時はもう、私の隣にたっちゃんはいないんだ。
「そんなの嫌だ……」
たっちゃんと別れることを考えたら、胸の奥から鼻にかけて「きゅうっ」と絞るように、悲しみがこみ上げてきた。私はおもむろにスマホのメールボックスを開いて、彼からのメッセージを読み返す。
[なんか、悪かった。土曜日、本当は用事あったんだろ?]
あの日、電話を切ってしばらくした後に届いたこのメール。たっちゃんも、言い過ぎたって反省していたってことだよね。だから、これが別れる原因にはならないよね。大丈夫だよね?
[ううん、逆に嬉しかった。私、いつかたっちゃんに振られちゃうんじゃないかって、ずっとそんな気がしてて、正直、たっちゃんが好きでいてくれることに自信がなかったから。私とのデートを楽しみにしてくれてるってわかって、逆に安心したよ。用事の件は、気にしなくていいからね]
せっかくのデートが気まずくなってしまったら最悪だから、私はなるべくたっちゃんが罪悪感を抱えないように、気を遣って返信した。
そして迎えたデート当日。
「たっちゃん、久しぶり! 元気だった? 最近なかなか会えなくてさみしいね……」
私の気遣いの甲斐もあってか、その日はいつも通り、幸せなひとときを過ごすことができた。近くの公園を散歩して、喫茶店で軽食をとりながら他愛ないおしゃべりをして、いつもより少し豪華な昼食をとって、午後は映画を見て……。
たっちゃんも楽しそうだったし、私も楽しかった。
夕食は、駅の近くのレストランで食べた。
毎回毎回、夕食のときは切ない気持ちになる。この時間が終われば、次に会えるのはまたさらに一ヶ月先。正直、たっちゃんと離れるのが恐かった。ずっと一緒にいたかった。
「たっちゃん、仕事はどう? 順調?」
注文したカルボナーラを口に含みながら、私は取り留めのない話題を口にする。
「ん……うん」
「……ねぇ、聞いてる? あ、このカルボナーラ美味しい! たっちゃんも食べてみる?」
でも、たっちゃんはさっきから、心ここにあらず……という感じだった。
「……どうしたの? なんか上の空だけど」
「あ、ご……ごめん。やっぱり、飯を食うリリはいつ見ても癒やされるな……って思ってさ」
突然たっちゃんがそんなことを言うから、私は恥ずかしくなって俯いてしまった。ご飯を一緒に食べると、たっちゃんはいつも先に食べ終わるんだけど、その後は私が食べる姿を眺めて癒やされてるんだって。いわく、私の食事はすごく可愛いんだとか。よく分からないけど、嬉しかった。
「もう、やめてよ! 食べにくいじゃん……」
嬉しいんだけど、やっぱりちょっと照れくさくて。私は少し、拗ねて見せた。そんな私を眺めながら、たっちゃんは優しく微笑んでいた。
「なんか、今日もあっという間だったな……」
そしてぽつりと、彼は呟いた。そう静かでもないはずの店内には、時を刻む秒針の音が、カチコチと響いていた。
「そっか、終わっちゃうんだね、今日……」
「次に会えるのは、来月の第二土曜日……になるのかな?」
「その前に、もう一回くらい会えるといいね。」
そうは言ってみたけど、きっと会えない。会えないのがわかっているからか、私もたっちゃんも、しばらく何の言葉も出せなかった。
「……明日も……仕事なんだよな」
「うん……」
「あ~あ、暇だなぁ、俺。何して過ごそうかな、明日……。リリがいれば、こんな気持ちにならないのにな」
たっちゃんはいかにもわざとらしくそう言いながら、私の白い小さな手を、たっちゃんの大きな両手で包み込むように握ってくれた。
「俺、こんな感じだから。俺がリリを振るとか、嫌いになるとか、そんなこと絶対にないから。今は……ちょっと事情があってできないけど、来年の暮れには俺……」
そして彼は、澄んだまっすぐな瞳で、私の顔を見つめながら言った。
「俺、リリにプロポーズするから!」
それは、完全なる不意打ちだった。
だけど、すぐに嬉しさと安心感に包まれた私は、自然と笑顔になった。やっとだよ。やっと聞けたよ、その言葉。本当に、長かった。
どうして今すぐプロポーズしてくれないのかは、大体察しがつく。
きっとたっちゃんも、あの冊子のことを気にしてるんだ。やりとりが始まった二○二八年九月六日を無事に通過してから、プロポースするつもりなんだと思う。
「そっか、来年の暮れかぁ……。今じゃないんだね。でも、私はたっちゃんの意思を尊重するよ。どうしてかはわからないけど、……来年の暮れを、楽しみに待ってる」
私は、冊子のことに触れないよう気をつけながら、たっちゃんに返事をした。たっちゃんは、ニッコリと微笑んだ。
あと一年。あと一年待てばいいんだ。今まで9年間もずっと一緒にいられたんだから、一年なんてあっという間だよ。大丈夫。もう、私たちのゴールはすぐそこだ。あの冊子から、完全に解き放たれる日も近い。
「じゃあ、また今度な」
「……うん。今度までが長いから、充電……して?」
「おう」
別れ際に、たっちゃんに抱きしめてもらった。落ち着く匂いと感覚に包まれ、全身の力が抜けてゆく。……離れたくない。
「たっちゃん、もっと……。もっと強く……。強く抱いて……!」
なぜか、涙がこぼれてきた。この瞬間が永遠に続けばいい……そう、いつも思う。でも、時間って非情だよね。そう願うほど、時を早く進めてくるんだから……。
「リリ、愛してる」
最後にそっと口づけをしてから私を離し、たっちゃんは、駅のホームへと消えていった。そんな彼の背中をずっと眺めながら、私は……なぜか泣き続けていた。いつもこんなに泣かないのに、涙が止まらなかった。
……このときの私は、まだ知らなかったんだ。すでにもう、私の体の中で、その秩序が壊れ始めているということを。
徐々に徐々に、言うことを聞かない細胞が私の体を蝕み、広がってきているということを。
そして。
私には、来年の暮れが。
――来ないということを。