まさか私が……
――二○二八年。その年に会社であった定期検診では、精密検査の通知を受けることはなかった。だから、去年のアレはやっぱり誤診だったんだと、しばらくはそう思ってた。
……でも。ここ数週間、毎日酷くだるくて、あの再検査のことが脳裏をよぎるようになり始めた。立てば頭はくらくらするし、荷物を持とうにも全然力が入らない。そのくせお腹は減らず、食欲がでなくて、体重は一気に5キロくらい減ってしまった。
「……大丈夫? リリちゃん。もしかして、ダイエット中?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
「違うの? なんか心配だなぁ。無理しないで、有給とっていいんだからね?」
「いえ、大丈夫です!」
有給は、第二土曜のために極力使わないでおきたいからね。あと少し頑張れば休暇日だし、そこでゆっくり休養をとればきっと……きっと……。
「……あれ?」
目の前がチカチカしてきた。ちょっと、どうしたの私……。これ……やばいかもしれない。へやがぐるぐる……しょうてんがうまく……ぁ……
「り……リリちゃん!? だいじょうぶ!? しっかり……」
目を覚ましたとき、私は見知らぬベッドの上で横たわっていた。
「……私……何してるの?」
直前に自分が何をしていたのかすらも、よく覚えてない。今この瞬間に人生が始まったんじゃないか……とさえ思えてくる。
落ち着いてきて初めて、自分の置かれている状況が見えてきた。
そうだ、私……、仕事中に気絶しちゃったんだ。じゃあ、ここは病院? 迷惑……かけちゃったな。最近ご飯食べられなかったから、栄養不足だったんだと思う。お母さんが死んだときと一緒だ。
まぁ、少し入院すれば大丈夫でしょ。腕に何本か刺さってる点滴は、栄養剤かな。服も、いつの間にか病衣に着替えさせられてるけど、もともと私が着ていた服はどこにいっちゃったんだろう。ちなみに私、どんな下着を履いてたっけ。ヨレヨレのヤツだったら恥ずかしいな……。
なんとなくそんなことを思いながら病室の天井を眺めていたら、白衣を着た先生が数人の看護師を引き連れて、部屋に入ってきた。
「磯本さんですね、磯本理々さん」
「はい、そうですけど……」
担当の先生は、ちょっと白髪の混じった、温和な感じのおじさんだった。
「ええとですね、まず……ご家族の方の連絡先を教えて頂けますか?」
「家族は……いません。両親は死んでしまって、兄弟もいないので……」
「そうでしたか、失礼しました。それでは、誰か……身元を保証してくれるような方はいらっしゃいますか?」
「ま……まぁ、一応……。えっ? そんなに長引くんですか?」
私が聞き返すと、先生は深いため息をつきながら眉間にしわを寄せた。
「詳しい検査はこれから行うので、まだなんとも言えないのですが……」
先生の深刻そうな表情を見て、さすがの私も不安になる。ただの栄養失調……じゃないみたい。全身の体温が、さぁっと低くなるのを感じた。
「磯本さん、あなたは……悪性腫瘍、つまりガンの疑いがあります」
…………。先生のその言葉は。私の思考を、全て吹き飛ばした。
「がん?」
「……残念ながら。それも、かなり進行している可能性が高い」
ぽかんとする私。なにこれ。ゆめ? それともどっきり?
自分のことだという自覚が、全く持てない。持てなすぎて、恐いという感覚もなかった。なんの感情もなくて、ただただぼーっとしていた。
検査の結果判明したのは、ガンのステージがⅣだということ。体中にがんが散らばっているから、手術は無理だってこと。抗がん剤も期待できなくて、できる治療は緩和療法くらいだってこと。極めつけに先生は……
「一ヶ月もったら奇跡でしょう」
……とまで言ってきた。なんだそれ。
こんな急に、余命一ヶ月って言われてもね。えっ、いま九月の上旬なんだけど、十月の上旬までに私、死んじゃうわけ? もう、木々の紅葉も、この町に積もる雪も、見られないってこと? あはは、まさか。
……笑いたかったのに、笑えなかった。
だって私、まだなんにもやり遂げてない。まだまだこの先、何十年もあるんじゃなかったの? 後でやればいいやって後回しにしてたこともたくさんあるし、家だって散らかったまんまだよ。
それが突然、残り一ヶ月。……どうしたらいいの……?
震える手で、スマホをタップする。たっちゃんに……話さないと。たっちゃんに話して、謝らないと。来年の暮れまでは待てそうに……
「……っく。うぅっ……」
そこまで思ったら、滝のように涙が溢れ出してきた。人生終わって、それで、どこに行っちゃうんだろう私。そもそも、人生が終わるってどういうこと? 意味わかんないんだけど。誰か教えてよ。教えてよ!!
『おっす、リリか? どうしたんだこんな時間に』
「う……ぅぁぁぁぁ……」
たっちゃんの声を聞いたら、あらゆるストッパーが弾け飛んで、子供みたいな声を上げて泣き出してしまった。
『えっ? なに? どうしたリリ。リリ?』
「たっちゃん……、私……私もう……。……ダメかもしれない」
『お……おい、なんだよ急に。ダメかもって? 何が?』
「私ね、お父さんと……おんなじ病気に、なっちゃった」
『お父さん……って? えっ?』
ダメだ、たっちゃんにはどうしてお父さんが死んだのか、教えてない。言わなきゃ。私の口から直接、言わなきゃ……!!
「……ガンなんだって、私」
――外は、酷い雨だった。真夏特有の夕立ってやつかな。ものすごい音を立てて、ザーザー降り注いでいた。私の心とおんなじだ。
「リリ!? リリっ!!」
たっちゃんが病室に駆け込んできてくれたのは、電話から30分ほどが経過したときだったと思う。
「たっちゃん、びしょ濡れ……。風邪ひいちゃうよ? そこにタオルあるから、拭いて?」
「俺のことじゃなくて、自分のことを気にしてくれよ! 気を強く持とう! な! 治療のスケジュールはどうなってる? 手術はいつだ?」
なんとか希望を見いだそうとしてくれるたっちゃん。そんな彼を見ていると、余計に辛くなる。
「手術はね、もうできないって。……全身に転移しちゃっててね、どうしようもないんだって」
私は、ありのままをたっちゃんに伝えた。それを聞いて、もうダメだって悟ってくれたのか、彼はその場にしゃがみ込んで泣き出してしまった。
「そんなに泣かないで……。ごめんね、今年の暮れまで……待てそうになくて。せっかく……せっかくたっちゃん……」
「お前こそ、泣くな! 笑え! 笑えば治るって話もあるんだ!」
「たっちゃんが泣いてたら、私も……泣いちゃうよ……」
「バカ、俺の顔をよく見ろ! 笑ってるだろ!?」
「泣いてるよ……」
「違う、最近俺は、こういう笑い方なんだ!」
ふふっ、なにそれ。
……って、あ。今私、笑ってた?
不思議だな、あんなに辛かったのに。彼と話したら、笑顔が戻ってきた。やっぱり、たっちゃんは最高だ。本当に、彼が恋人で良かった。恋人で……よかった……
……そうだ。大切なことを……忘れていた。
「私の部屋に、ピンク色のポーチがあるんだけど……。もし面倒じゃなかったら、持ってきて……欲しいんだ……」
帰り際に私は、たっちゃんにそんなお願いをして、自宅の鍵を渡した。
あのポーチの中には、使い切った業務手帳と……「アレ」が入っている。
そう、「アレ」。そろそろ「アレ」を、たっちゃんに渡しておかないと。あと数日で、二○二八年、九月六日になっちゃうから。




