1.75-3 報いと救い
三日はあっという間に過ぎた。
言われた大木が見える茶屋で、私はシュウラがやってくるのを待った。まだ早い時間で旅人も少ない。
私はお茶を飲みつつ、何気なく腰の剣の柄を握っては放し、握っては放しを繰り返している。
頭の中は、シュウラを切るべきか、切らないべきか、考えている。
切りたいとは思わない。思わないけど、切らないという加減が可能な相手とも思えない。
本気でやらなければ、私の方が切られてしまうだろう。
しかし、彼に切られるというのは、因果応報、正しいことのような気もする。
何も答えが出ないまま、私はこちらへ近づいてくるシュウラを見つけ、立ち上がり、大木の前に立った。
目の前で、シュウラが足を止める。
「逃げなかったのは、さすがだな」
前とは違う、落ち着いた口調のシュウラには、油断も慢心もうかがえない。
私は無言のまま、その彼を見ていた。
どうしたらいいんだろう?
「いざ、勝負」
静かな声でシュウラがそう言って、身構えた。居合の構え。
私は立ち尽くしたまま、それに対した。
ここでシュウラが怒りを抱けば、私に勝ち目がはっきり出たはずだ。
そうは、ならなかった。
シュウラは、落ち着いた眼差しで、こちらを見ている。
静かな表情、瞳。
やはり、純粋な技量の勝負になる。
ふっとシュウラが消えた時、私が動いていた。
甲高い音。彼とすれ違い、お互いが振り返りざまに一撃。
最後の甲高い音と火花。
パッと二人が離れ、同時に剣を鞘へ。
「見事」
シュウラがそう言って、ニヤッと笑った。
私にはそんな余地はない。右手がビリビリと痺れている。今まで、様々な一撃を跳ね返したけど、こんなに重いのは久しぶりだ。ミチヲの変な剣術に近い。
このまま続けていれば、じわじわと押し切られそうだ。
一方で、シュウラを殺さずに無力化するのは、不可能だと悟った。
手加減はやはり、通じない。
ここに至って、私の中に強い意志が起こった。
死にたくない。
まだ、生きたい。
生への執着が、はっきりと感じ取れた。
切るしかないか。いや、切る。
私は静寂の太刀を繰り出すために、僅かに姿勢を変える。
「静寂の太刀、やはり完成したか」
いきなり、シュウラがそう言って、彼も姿勢を変えた。
「我が師の理想形を、壊してみせる」
どうやらシュウラは対処法を考えていたらしい。しかし静寂の太刀の使い手は、極めて少ない、ほとんど門外不出だ。実際に剣を合わせていないだろう。
こうなると、シュウラは私の剣を想像ながらも予測でき、私はシュウラの剣を何も知らない、という展開だった。
構うものか。
一撃で切れば、何も変わらない。
シュウラが動くのが、わかった。
予感に近い、直感。
私も踏み出す。
シュウラが消えた。
実際には消えていないし、消えたと思ったのも錯覚だ。あまりに踏み込みが早すぎて、見えていても、意識が追いつかない。
一撃が来る、と分かって、防御のために、私の居合を彼の剣に当てる。
さっき以上の衝撃、と思った時には、私の剣は手を離れ、そして胸を何かが走り抜けた。
体から力が抜け、前のめりに倒れていた。
何かが私の下に広がる。液体。粘度がある。血か。
私は切られた。私の負けだ。
遠くで誰かが何か声をかけてきたが、よく聞こえない。
いや、遅れて理解できた。
「苦しんで死ね」
そんな短い言葉だ。ものすごく緩慢に理解されたため、長い言葉に聞こえたようだ。
どんどん思考が緩慢になる。
体が冷えていく。指一本さえも動かせない。
意識が闇に飲まれた。
どれくらいの時間が過ぎたのか、私は何もない場所を彷徨っていた。
腰には剣がない。それに気づくと、不安になった。
何かが私を掠める。
剣の一撃だ。体に痛み。
また剣が私に襲いかかり、軽く切られる。
避けたいのに、避けられない。
全身が切り刻まれ、痛みが思考を支配する。
真っ暗な闇が、私から全てを奪っていく気がした。
全てが、失われる。
急に光が蘇った。
悲鳴を上げようとしたけど、唸り声しか出ない。口に何かが咬まされている。硬い。
跳ね起きようとしたけど、体に力は入らない。
荒い呼吸が自分でもわかった。
視界がぼやけて、よく分からない。ここはどこだ?
誰かが何か言うけど、曖昧にしか聞こえない。
腕に痛み。なんだ? 痛みが強くなる。
意識が曖昧になり、また闇に落ちた。
でも今度は暖かい闇だった。私は海というものを知らないけど、海に入っているとこんな感じかもしれない。ただ、呼吸をしなくては死んでしまう。
闇の中で呼吸を意識した。何かを吸い込める。苦しい。吐いた。また吸う。今度は少し楽だ。
浅い呼吸を繰り返し、じっと闇の中を意識した。
何もない。何も、何も。
体がどこかへ浮上する感覚があり、闇が消えた。
気づくと目を開いていた。
まだ視界がぼやけている。そこへ人の顔が現れたけど、判別がつかない。
「大丈夫? 何が起きたか覚えている?」
声はどうにか聞こえた。
首を振ろうとしたけど、まるでなんかで固められたように、首が重い。
誰かが何度か頷き、視界から消えた。
少しずつ視界がはっきりして、全てが輪郭を取り戻した。どこかの建物の中だ。体は全く動かない。首が動かないのは、どうやら何かで固められているわけではなく、純粋に私の体に力が入っていないせいらしい。
その視界に、初老の男の顔が現れた。知らない顔だ。
「生きているか? 体は痛むか?」
痛み? 痛みはなかった。
どうにか首を振ると、男がかすかに笑みを見せた。
「それは薬が効いているということだ。これから一ヶ月は、その調子だろう。気を楽に持って、安心しなさい」
声を出そうとしたけど、声も出ない。
男が頷く。私の顎の動きを見たんだろう。
「ここは安全だ。この娘を知っているか?」
初老の男とは反対側から、少女が顔を覗き込んできた。
どこかで見た顔だけど、思い出せない。
「サリーさん、私ですよ、キラですよ。忘れちゃいましたか?」
キラ? 過去に聞いた名前だ。
あれは、娼館で……。
「事情はいずれ、話す」男性がいう。「休みなさい。お前さんには長い休養が必要だ」
二人の顔が視界から消え、いつの間にか瞼を閉じて、私は眠っていた。
何度、目覚めと眠りを繰り返したのか、わからないまま、目が覚める度に変化を感じた。体が熱を持っていることもあれば、冷え切っていることもある。痛みが激しい時、悲鳴を上げたい時もあれば、何も感じず、不安でやはり声を上げたい時もある。
そのうちに声が出せるようになったけど、はっきりとは発音できない。喉が壊れたのではなく、あまりに長い時間、喋れなかったせいだろう。
時間の感覚が根こそぎになくなった頃、キラが私を抱え上げて、上体を起こしてくれた。今までは彼女が私に重湯を食べさせてくれていたけど、今日からは自分で食べていい、と例の男性が言ったのだ。
彼の名前は、アキヒコ、と聞いている。医者だった。
「こんなに細くなっちゃって」
最初に娼館で会った時とは別人のように成長しているキラが、私の腕を撫でた。
私自身が見ても、びっくりするほど痩せていた。
「ここに運び込まれて、もう半年ですよ。冬の盛りです」
冬の盛り、という表現は珍しいな、と思いつつ、私は少し開けた視界でストーブを見た。
それからどうにか食事をして、また横になった。
どうやら私は死ななかった。意識を取り戻してから、何度も繰り返していた考えを、やっぱり考えていた。
このまま死ぬかもしれない、と思ってきたけど、どうやら、私はまだ死なないのだ。
ベッドに横になったまま、近くの窓の外を見た。
雪が降っている。
あのアンギラスでの冬から、もう一年が過ぎたのだ。
(続く)