5-9 幻と現実の狭間
幻が翻った。
少女が遊んでいる。少年同士が剣の稽古をしている。
あれは、誰だ? 声が響いた。俺の横をすり抜けたのは、俺。
それを追うのは、モエ。
二人とも子供だ。
もう過去になった時代。
目の前でモエが切られたのが見えた。切ったのは、誰だ?
怒りが爆発した。
風が吹く。それがよく見えた。見えないはずの風が、見える。
身をかわした。風を割るように進む。すぐ近くを薙ぎ払うように見えない何かが突き抜けた。
俺は剣を持っている。
もう大人だった。
目の前に傭兵の仲間の背中。向かってくるのは、蛮族の大軍。
これは誰の記憶だ? どこの光景だ?
傭兵たちは一人も振り返らなかった。怒号を上げて、突っ込んでいく。
悲鳴、鈍い音。
痛みを感じる。
俺も敵の中に飛び込んでいるのだ。剣を振った。敵はそこらじゅうにいる。
四方が敵に囲まれている。
切った。切っても、倒しても、蛮族がやってくる。
必死になる自分がいる。
悪夢。悪夢以外の何物でもない。
早く醒めてくれ。俺を現実に戻してくれ。
蛮族の槍が俺の腹部を貫く。左腕が脈動する。自分の血潮が飛び散る。
傷はすぐに塞がった。
やはり夢だ。しかし痛みは本物。
何が現実なのか、わからないまま、俺は戦い続けた。
蛮族が急に消え、そこには人形が立っている。
人間そのままの人形。動かない。
何かが空を切る。
踏み込んだ。人形を切った。切ったはずだが、切っ先が届かない。
強烈な衝撃が俺を打ち据え、足が滑る。即座に姿勢を取り戻し、転がり、起き上がる。
身構えたところへ、また衝撃。
姿勢を変え、床を蹴り、勢いを殺す。
人形は全部で三体。やはり動かない。
避けたのは何を避けたのか。恐れたのは何を恐れたのか。
とにかく俺は横へ横へと転がり、転がり、さらに転がる。
人形が一斉にこちらを向いた。
視線を斬り払うように、腕を振った。
いや、剣だ。
俺は両手に剣を握っている。
衝撃が体を打ち据え、人形たちから引き剥がされる。
着地、衝撃を殺しきれず、転倒。
姿勢を取り戻す。
我に返った。
呻いて、喉元を迫り上がってきた血の塊を吐き出す。
目の前を見た。
ソラ、カナタ、そして名も知らぬ女が、こちらを凝視している。
三人ともが顔面を蒼白にし、恐れの視線を俺に向けていた。
腹部を刺し貫いたのは、誰の刃だったか。
精神剣は何度も俺を打ち据えている。
しかし俺は生きていた。
もう一度、血を吐く。それでだいぶ楽になった。呼吸がスムーズになる。
姿勢を整える。両脚に力を入れ、まっすぐに立った。
「化け物め……!」
ソラが吐き捨てた。
俺は確かに、もう人ではない。
腹部の傷は見なくても、触らなくても致命傷だった。それが今はもう消えている。
精神剣を回避し続けることも、それを受けても生き残ることも、どちらも人間の技ではない。
だが、俺は戦わなくちゃいけない。
俺には戦う理由がある。
一歩、二歩と三人に向かって駆け出す。
精神剣が来る。はっきりと見えた。力の隙間に身を躍らせる。
その隙間を塞ごうとする精神剣を見ても、今度は精神剣同士が触れ合って生まれる間隙を進んだ。
体が押し潰されるのも一瞬の錯覚、強引な歩法で力の波を押しのける。
両手の剣が唸る。ソラも、カナタも反撃。
四本の剣が目まぐるしく交錯し、カナタが肩を切られて転倒するが、一方の俺もソラの一撃で脇腹を深く裂かれる。
後詰として女が飛びかかってくる。
見えているぞ。
一直線の蹴りで女を弾き飛ばすが、代わりに精神剣が飛んでくる。
片足では回避は不能。どうにか身を捻るところへ、ソラの斬撃もやってくる。
まず一撃、そしてもう一撃が、俺の右肩から胸にかけて走り抜ける。
そこで精神剣に吹っ飛ばされ、俺はソラの攻撃範囲から外れる。
床に転がり、もう一度、姿勢を作った。
胸が蠢く感覚。傷は治癒していく。
女が立ち上がり、即座にこちらへ突っ込んでくる。俺の右腕には力が入らない。時間を稼ぐべく、左腕の剣を構える。
遅れてソラが追随、カナタは遅れた。
女が一人で複数の衝撃波を形成、打ち出してくる。
密度が薄い。しかし威力は高い。
回避に徹して、さらに距離を置く。置くが、女の踏み込みが早すぎる。
すれ違う。首筋に衝撃。
血飛沫が舞い上がる。
構わず振り返り、女が俺の命を確実に絶とうとする一撃を弾き飛ばす。
倒れ込んだ勢いで体を逃し、女から逃れる。
血の噴出は一瞬だけで、もう止まった。
俺はまだ生きている。
女が足を止め、ソラがそれに並ぶ。
やっと俺は周囲の状況を見ることができた。
建物の一階部分で戦っていたが、壁も床も天井も、ボロボロになっている。
近衛騎士が遠くから見守っているが、決して近づこうとはしない。
俺はさぞかし良い見世物だろう。
おそらく化け物として、人知を超えた存在として、彼らが語り継ぐに違いない。
ぐずりと、全ての像が歪む。
再び幻が蘇る。
「引け」
唐突に第三者の声がした。ソラも、女も、カナタもそちらを見ている。
俺もだ。
そこには壮年の男がいる。どこかで見た顔だった。そう思った時には、その男の像に無数の男の像が重なる。どこか違うが、どこか似ている男たち。
誰だ?
誰かが「陛下」と呟くのが聞こえた。
シュタイナ王。この男が、カイト・シュタイナ十三世か。
俺が殺すべき、目標。
「剣聖よ、引け。この場は預かる」
預かる? 王が剣の使い手だと聞いたことはなかった。
一人の男と、幻の男たちが進み出てきた。
俺は剣を構えた。殺せる。全てを断てる。ここで終わらせることができるのだ。
「お前は生きているか?」
複数の声が反響する。男たちも同じ言葉を口にしているのだ。
誰だ? お前たちは、誰なのだ?
「死んでいるのか? ミチヲ・タカツジ。答えよ」
声がいくつもの波紋となって、俺を包み込む。
死んでいるのか? 俺は、死んでいる?
いや、生きているんだ。生きようとしている。
答えようとしたが、言葉が出なかった。
「私は、生きている。お前が生きていることを、私は知った。それを尊重しよう」
鷹揚な口調。覇者の口調だ。
何を言うのか。俺を、モエを傷つけたことを、それで済ませるわけがない。
俺は一歩、前に踏み出した。
と、男が笑った。
男たちがみな、笑顔を見せた。
それを前にして俺の足は止まってしまった。
「生きているようだな、お前は。いや、あなたは、というべきだろうか。神よ」
神?
俺は人間だ。
人間? 人間は、この光景を見ることがあるのか?
俺が見ている光景とは、何なのだ?
どうなったのかは、後になってもよく思い出せなかった。
俺は剣を手放しており、気づいた時には近衛兵が俺を拘束して、組み伏せてた。それも首筋に剣を当てられて。
すぐ目の前にまだカイト・シュタイナ十三世は立っており、しかしつまらなそうな顔でこちらを見下ろしていた。
「神は去ったか。惜しいことだ」
そんな言葉を残し、王は俺に背中を向けた。例の女がまだ恐れを多分に含んだ瞳で俺を見て、それに続く。
ソラが指示を出し、俺は拘束されたまま、牢まで連れて行かれた。
薄暗いそこに放り込まれ、頑丈な鉄格子を前にして、俺はやっと自分の敗北を悟り、同時に、自分の行動が実は全くの無駄だったと知った。
俺はあの瞬間、神になったかもしれない。
シュタイナ王が俺を神と呼んだ瞬間。
だが結局、俺は人間に戻った。だからこうしてここにいる。
あの一瞬でシュタイナ王を殺していたら、俺はどうなったのだろう?
神でいられたのか? それとも、人間に戻り、無数の刃で八つ裂きにされただろうか。
わからない。考えてもわからないだろう。
俺は牢の中で静かに、そして抑えきれずに、漏らすように声を上げて泣いた。
いつまでも俺は泣き続けた。
涙が枯れて、全てを失ったことに気づき、嗚咽だけが口をついた。
もう二度と、俺は大切なものを手にできないと気づき、それに絶望した。
あの遠い異国、あの小さな病院の一室にいることこそが、俺にできた最善の選択だったのだ。
どれほどの時間が過ぎても、牢には誰もやってこなかった。水も食料も届けられることがなく、ただ俺は身を屈めて、うずくまっていた。
光の見えない牢こそが、俺に相応しい終着点だった。
(続く)




