5-7 人ではないもの
フカミ・テンドーがなぜここに、とは思わなかった。
奴もまた、神の一角なのだ。それを俺はもう理解している。
「ここまでの存在になるとは、思わなかった」
黒い液体を踏み、近づいてくる老人は、完全な静寂を体現していた。
それによって、俺が息を乱し、肩を上下させているのが一層、惨めに見える。
「三つの目を持つ存在が、二つの種族を併せ持つ」
ピタリとフカミが足を止めた。
「人の目である右目、魔物を見出す左目、そしてその身に宿る神の目。素晴らしいことだ。それだけでも神の座に近づき過ぎるほど近づいているというのに、人の身でありながら、我らの肉をも持つ」
その時、周囲に満ちている黒い液体が脈動した気がした。
「対話の時だ」
もう一度の脈動。
一瞬で全ての世界が変わっていた。
真っ暗闇。そこに俺は浮かんでいる。目の前にフカミもいる。
もう一つ、形の見えない存在が、確かにその場にいて、俺たちを見ていた。
「なぜそこまで強さを求める?」
「誰を切るつもりだ?」
「切ってどうなる?」
「逃げればいいのではないか? どこまでも、どこまでも」
「誰とも関わらなければ、それで済むのではないか?」
「なぜ殺す? なぜ命を奪う?」
「お前はなぜ、生きている?」
無数の問いが襲いかかってくる。それはフカミの口から出ているはずなのに、フカミは口を閉じている。
問いかけが俺を締め上げる。
何かが光った。
見えた気がした、その時には手を伸ばしていた。
何も見えないはずのそこで、俺は剣を引き抜いている。
問いかけに答える言葉を、俺は持たない。
それがよくわかった。何かがその俺の立場を守るために、この剣を形にしてくれたのだろう。
俺の中には、答えなんてない。
ただ必死だった。常に必死だった。ひたすら前だと思える方へ走った。迷うこともあった、不安もあった。それでも先へ進んだ。走り、歩き、また走った。
仲間がいた。モエやカイが、すぐそばで、別の道を選びながらもそこにてくれた。
だから走れた。
俺は怒り狂っているのかもしれない。モエを傷つけられ、その復讐に駆られているだけかもしれない。
そしてそれは、あるいは、愚かな行為かもしれない。
でも今はそれが、俺が目指すべき場所だった。唯一見える、光明であり、そこしか目指す場所を知らないのだ。
手に取った光の剣を振った。
何かが切れた気がした。
静寂。フカミは動かない。全てが動かなかった。
「人ではなくなるつもりか?」
静かな問いかけに、俺は剣の柄を握り直した。
剣に生きると決めた時は、いつだったか。
傭兵になった時、俺はまだ本当の剣士ではなかった。生きるために剣を取る、ただの人間だった。
精神剣に目覚めた時にはもう俺は道を決めていた。
では、きっかけは、そもそもの最初はいつか。
もしかしたら、モエの一撃を凌いだ時だったかもしれない。
あの一瞬、命の危機を目の前にして、俺の剣が俺を救った。
自分の剣というものが初めて見えたのは、たぶん、あの時だろう。
おかしな話だが、誰かを倒した時ではなく、自分を守った時、俺は剣に目覚めたのだ。
あの時から様々な剣士に出会った。
誰もが人でありながら、どこかで何かを諦め、切り捨てていた。
そこに至る前に苦痛や苦悩を無数に乗り越えただろう。俺だって、今の場所に立つまでに様々なものを失った。そして損なってきた。
人であることは、きっともう、ずっと前にやめたのだ。
俺は剣士で、剣が全てになった。
今、人間を捨てることを恐れる俺では、ない。
光でできた剣を、真上に掲げた。光の強さが増した気がした。
「愚かな男だ」
はっきりとフカミの声がした。しかし今、剣の輝きはみるみるうちに増して、全てを白く塗りつぶしている。フカミの姿も見えなかった。
どこかで獣が咆哮した。
それは俺だったかもしれない。
光が全てを消して、刹那で完全なる闇が戻る。
何も見えなかった。いや、滲み出すように、その光景が見えた。
巨大な空間に、俺は横になっている。
黒い液体はもう消えている。フカミもいないようだ。精神剣がそれを俺に教えてくれる。
上体を起こす。服がボロボロになっていることで、闘いが嘘ではなかったことがわかった。フカミはどこへ行ったのだろう?
もう一度、その空間を確認した。頭上の大穴の上には満天の星空。巨獣のいた痕跡は、崩落した岩石や、粉砕されて散らばっている無数の石でわかる。
でももう、影も形もない。
消えてしまった。
俺の左腕がかすかに熱を持っている。結局、アキヒコの目論見は外れたのだろうか。
俺自身、自分が何を得たのか、わからなかった。
ここでぼうっとしていても、仕方がない。俺は背を向けて、洞窟を戻り、狭い隙間から外へ出た。
ひとりきりで歩く。ここのところ、ずっと一人で行動していたのに、やけに、ひとりきりであることが意識された。
まるで、自分だけが全てを置き去りにして先へ進んでしまったような感覚。
もう、俺のそばには誰もいない。
夜の間に山を降り、川沿いを進み、明け方には例の小屋に着いた。俺に目を譲った、老人の小屋。そういえば、あの老人の体はどこに葬られたのだろうか。
小屋の外で、サリーが待っていた。俺を見ても、反応しない。
「ただいま」
「……どうやら無事みたいね」
サリーは椅子に座ったままだ。朝日がちょうど彼女の顔を照らしている。不安が今にも決壊しそうな、そんな表情に見えた。
安心させるように、俺は頷いて見せる。
「この通り、無事だ。何が起こったか、うまく説明できないが、とにかく、俺は無事だ」
「なら良いのよ」
サリーが立ち上がり、俺の横をすり抜けると。そのまま走り去った。俺がその場に立ち尽くしていると、遠くからかすかに泣き声が聞こえてきた。
小屋に戻る。アキヒコが座って待っていた。俺を見て、軽く顎を引く。
「何か違和感はあるか?」
「何もないですね。むしろ楽になったくらいです」
「お前は神になったのか?」
またその言葉か。俺は思わず小さく声を上げて笑っていた。
「俺は俺ですよ。たぶん、人だと思いますけど」
「いつ、発つつもりだ?」
「そうですね。今日はちょっと、疲れた。明日には発とうと思います」
もう一度、頷いたアキヒコが食事の用意を始め、そのうちにサリーも帰ってきた。いつも通りの彼女に戻っている。彼女も料理に加わる。
俺は寝転がって目を閉じていた。疲れたと言ったが、あれは嘘だ。少しも疲労はない。
瞼の裏が瞬く。
脳裏で戦う人々が途切れなく踊り続ける。殺し合う彼ら、徒党を組んでぶつかる彼ら。
最後には誰も残らず、荒野だけが残る。
俺だけがその何もない世界を、こうして見ている。
獣が人間の肉体だったものを食い散らし、獣の時代が来る。
人はどこへ行ったのか?
滅びたのか?「ミチヲ?」
声に瞼を上げると、サリーが身を乗り出している。幻は綺麗に消えた。
「食事だけど、食べれそう?」
「もちろん」
起き上がって、体をほぐす。やはり疲れは少しもない。身体が軽すぎるくらいだ。
料理を囲んで、三人で雑談をした。俺とサリーは剣術について話し、サリーとアキヒコは薬や病気の治療について話している。俺とアキヒコにはそれほど共通の話題はない。
昼過ぎになり、俺とサリーは外に出て剣術の稽古をした。彼女が自己評価した通り、彼女の剣術は最後に会った時より、だいぶ切れ味が悪かった。
彼女自身もそれに気づいたようで、不機嫌そうにしている。
夕方になり、料理ができるまで、俺はもう一度、外に出て、近くをゆっくりと歩いた。
様々な幻が周囲で踊る。見知らぬ人々が、めいめいに過ごしている。子どもがいて、大人がいて、老人がいる。楽しそうに過ごす彼らを俺は横目に、川べりに立った。
結構、深そうだ。あの老人は俺をどうやって拾い上げたのだろう。その話は聞いていない。
そう、老人は小屋の裏手に埋められたとアキヒコから聞いた。適当な野花を摘んで供えておいたが、これは形だけだ。
老人は俺が殺したわけだが、どうしてか、まだ生きているような気がする。
俺がまるであの老人になってしまったような感覚がある。
気のせいだろう。考えすぎだ。
しばらく川面を眺めていた。
夕方に小屋に戻ると既に料理ができている。アキヒコが酒を買ってきていて、それも出た。
「近くの村で聞いたが」酒を茶碗に注ぎながらアキヒコが言う。「この小屋にいる老人は正気を失っていると思われていたようだ。死んだと話すと、彼らはホッとしたようだった」
俺は何も言わずに酒に口をつけた。
今度は自分の番だろうか、と考えた。
俺が死ぬことで、誰かが安心するような未来が、あるのだろうか。
食事が済んで、三人が並んで横になった。
二人は昨日の夜、俺を待っていたせいか、今夜はすぐに眠ったようだった。
俺は閉じた瞼の裏で、幻をずっと見続けていた。
その幻の中で、モエが笑っている。その像が滲むように消える。
もう一度、モエの姿を思い描いたが、像を結ばなかった。
翌日の朝、俺はシュタイナ王国に向けて歩き出した。
初夏の日差しの下で、幻だけが揺らめいている。
(続く)