【第四話 ~沖弓~】1
三年五組。窓際の一番後ろ。
漆崎裕太の机には誰も座っていなかった。それも相当長い期間、机の使用者はそこを訪れてはいなかった。ほかの机とは別の時間を過ごしているみたいに、漆崎の机はそこに佇んでいた。
「漆崎ね。もう二年のころからずっと学校に来ていないよ」
ちょうど入り口近くにいた男子生徒は、そう告げた。
沖弓が三年五組の教室を訪ねたのは、週末を挟んだ月曜日。昼休みのことだった。日曜日からまた天気が崩れ始め、今日は朝から土砂降りだ。下駄箱も廊下も教室も、じっとりとしめった空気がたちこめていた。生乾きの衣類のにおいがぷんぷんする。
「担任は体調不良ってみんなに言っているけど、本当のところはどうなのかな。正直、あんまりあいつとは関わりないからどういう状況かわからないんだ」
その男子生徒は突然来訪した見知らぬ一年生に、丁寧に答えてくれた。ぽっちゃりした体型で、優しそうな垂れ目の先輩だ。
「そうだったんですか――」
沖弓も、こういう事態を全く想定していなかったわけではない。
漆崎の書き込みの口調や、クラスメイトとのやりとりの少なさ(というより、全くやりとりがなかったのだが)から考えて、すでにこの学校とは距離をとっていたとしてもおかしくはなかった。心理的にも物理的にも、普通高校生が属する「学校」という集団からは隔絶している気がしていた。
いくらか格好良く表現すれば「一匹狼」だが、平たくいうのであれば「孤独」だ。
「すみません、漆崎先輩のことを知っている方って、ご存知ないですか?」
垂れ目の男子生徒にそう聞いてみた。彼は垂れ目をさらに弛ませて少し考えたが、結局見当がつかなかったらしい。
「なあ野田、漆崎って誰かと仲良かったっけ?」
彼は近くに座っていた女子生徒に声をかけた。
野田と呼ばれた女子生徒は、垂れ目の彼を見て、空っぽの漆崎の机を見て、それからちらりと沖弓を観察した。リスのように小さな、邪気のない黒い目だった。その目には銀縁の眼鏡がかけられている。飾りっ気の全くない、小柄な生徒だった。垂れ目の彼とは普段から話す間柄のようだ。
「漆崎くん? どうだろうね。学校に来てた頃も、誰かとつるんでるところは見たことがないから」
野田先輩はそのあとに続けて「サークルの友達ならなんか知ってるんじゃない?」と言った。
サークル。漆崎先輩はサークルに所属しているのか。「リリー」では確認出来なかった新情報だ。
「二組の鈴木が同じサークルだよ」野田先輩が続ける。「二年のとき同じクラスだったから、覚えてる。漢字は忘れたけど、鈴木ミナミって子」
頭良い子でさ、二組は国公立理系志望のクラスなんだけど、その中でもトップ争いしてる。五月の記述模試、本人は隠してるけど偏差値七十超えてたって噂だよ。わたしもそんな頭があったらなあ。受験って、本当に気が滅入りそう。
野田先輩は案外おしゃべりで、沖弓は少し安心した。
「おい野田、脱線してるぞ」垂れ目の先輩がたしなめる。
「モッチーはいいじゃん、内申で指定校推薦取れそうだし」
垂れ目の先輩は苗字が「元木」で、クラスではモッチーと呼ばれているそうだ。少なからず、彼のその体型や優しそうな垂れ目も由来の一部なのではと、沖弓は思った。
「三年生はもう受験モードですもんね」
野田先輩はいつの間にか、机に突っ伏すようなだらけ方をしている。
「そうなんだよ。えーと、あなたは一年生?」
「はい。あ、名乗りもせず、すみません。沖弓といいます」
「そかそか。沖弓さん、あっという間だから、今のうちに遊んでおきなよ。遊びすぎた先輩からのアドバイス」
大いに矛盾をはらんだ助言をしてくれた野田先輩は、スマートフォンを取り出して言う。「連絡取るなら教えようか。鈴木ミナミの『リリー』。あ、名前は『美那未』だ。書いてあった」
「ありがとうございます――ちなみに、漆崎先輩はなんのサークルに所属なんでしょうか?」
野田先輩と元木先輩はお互いに顔を見合わせる。
元木先輩が口を開く。「一年生だとまだ知らない生徒も多いよね。僕も、人伝いに聞いたから。沖弓さん、僕らは君が、漆崎もしくはそのサークルにどんな用事があるのか、詮索しない。なぜ教室まで来て、情報を集めているのか、理由を聞かない。他のみんなも、大抵はそいういうふうにしている」
そうそう、と野田先輩が話を引き取る。「ときどきデリカシーのないやつもいるけど、まあ少数だよ。だからもし沖弓さんに何かしら事情があって、実のところ本当は私たちにも何も悟られずに事を進めたいなら、心配しなくて大丈夫。あなたが『探偵サークル』に用事がある、なんてことは誰にも言わないから」




