【第三話 ~善~】1
善と智視は、その日の午後五時を回ったあたりで、喫茶店を後にした。
高橋先輩に聞き込みをするための算段をつけ、英会話同好会の依頼の話は一区切りにして、あとは中身のない四方山話をいくつかした。
智視はまた「ワイルド・オーシャン」の話を引っ張り出して、一人で興奮していた。ザトウクジラの歌には「流行り廃り」があるんだ。去年歌われ尽くしちゃった曲を使い回したりしてると、そのオス、モテないんだって。だから今年のヒットソングが出回ると、みんなそれを覚えて、歌い出す。人間界でいうオリコンとか、ダウンロード数みたいだよね。しかもさ、それが住んでいる海域によって――
善は適当に相槌を打って聞いていた。そういうことを解明する生物学者はすごいなと思いながら。
松本郁への「中傷コメント」は、いくつかのパターンに分類できた。
まずは、富沢香奈のように、感情をむき出しにして、「いつでも私は戦える」と言っているもの。一番の過激派だ。
二つ目に、「私は当事者じゃありませんが、意見を述べるとすれば」という立ち位置のもの。自分には火の粉が降りかからないように、最新の注意を払っている。「みんなそう思っている」というような言い方で、主語が誤魔化されたものが多い。実際、この二つ目が大半だ。もちろんこの炎上状態自体を苦慮している者もいるだろうが、SNS上では影を潜めている。それについて、善は特別腹が立つこともなかった。そういうものだろうと、しょうがないものだろうと、思った。
三つ目がある。匿名の方の掲示板に投げ込まれたその一文を見たとき、善は言葉を失った。
〈あいつ、片親だったろ? 留学なんて行く金あんの?〉
これは、意見でも中傷でもなんでもない。
差別発言である。
智視の前では隠していたが、善は腹の奥底が沸々と煮えてくるのを感じていた。ああ、そうか。こういうことを書けてしまう人間が、彼女の近くにはいるのか。
松本郁が留学する理由は、もしかしたら一時的な「退避」なのかもしれない。善は憫察した。
苦々しい気分を引きずったまま帰宅すると、リビングで姉が缶ビールを開けていた。風呂上がりらしく、濡れた髪のままバスタオルを肩にかけ、あまり感心できない恰好でPCのディスプレイを見ていた。
「あらおかえり。早いのね」
「姉ちゃんこそなんでそんな早いの?」
「今週は土曜も出るの。今日はその分の前倒しで休み」
善の姉、荻原玲子は、世田谷にあるデザイン制作の会社に勤務している。
もっとも、彼女はデザイナーではなく、最前線で顧客の相手をする営業部だ。そのため、取引先の状況によって出勤シフトが不規則に変動した。まだ設立して十年も経っていないベンチャー企業で、もともとはWEBマーケティングの支援業務で成長した会社らしい。一年目の玲子は、最近やっとOJT担当の先輩から独り立ちをしたらしく「やっと自由に回れる」と喜んでいた。
もっぱら休みの日は、明るいうちから酒を飲み、怠惰な暮らしを送っている。荻原家のリビングにはテレビの反対側にデスクトップの共用パソコンを置いているのだが、大抵は玲子が占領し、海外アーティストのビデオクリップやライブ映像を見ていた――今見ているのは確かジャスティン・ティンバーレイクの新曲だ。
「父さん、今日ご飯要らないって」玲子はジャスティンを見つめながら言う。
「そうか――姉ちゃんは?」
「私もいいかな。おつまみ食べてるし」
カシューナッツの空袋が、ダイニングテーブルに放ってあった。
「つまみは飯って言わない」
「じゃあダイエット」
ナッツとビールの組み合わせの方がカロリー高そうだなと思いながら、善は自分の部屋に鞄を投げ込み、キッチンへ行き冷蔵庫を物色し始めた。
キャベツがそろそろまずそうなので使うことにした。切断面が黄ばんできている。豚ばら肉もまだ少し残っていたので、回鍋肉に決めた。ピーマン、買ってこればよかった。
麦茶をコップに入れて少し飲み、冷凍しておいた昨日のご飯を電子レンジに入れる。ギリギリのキャベツのラップを取り外し、雑に刻み始める。
「制服くらい脱いでからにしたら。におい付くよ」
玲子は、缶ビールをぐいぐい喉に流し込みつつ進言してきた。
「姉ちゃんこそ飲みすぎんなよ。あと髪、乾かせよ」
「めんどくさいー! ねえ善、乾かしてー」
「絶対嫌だ」
姉が泥酔コースのインターチェンジへ脱線しないよう、コップをもう一つ出して、麦茶を注いでやった。
「すまんのー弟よ」
「はいはい」
変にしおらしい演技をして、玲子は麦茶をすすった。
「ビールも麦、麦茶も麦。わたしは、そうだなービールかなー」
「何言ってんだ」
年齢で言えば六つも離れている姉だが、善はこれまでほとんど、玲子に対して姉らしさを感じたことがなかった。
高校生以降、学校からの宿題や、長期休暇の課題をきちんと取り組んだ彼女を、善は見たことがない。それはともかくとしても、さらに彼女は、傍目にもおかしな、突飛で理解に苦しむ理由で学校を休むことが多かった。
中野のプラネタリウムに行きたいから。
家中の写真を整理しなければいけないから。
大分県の温泉旅館で、住み込みで働くことにしたから。
――そんな感じの理由だ。大分の旅館には、二週間、本当に住み込みでアルバイトして帰ってきた。
善は当時、一種の「危うさ」を彼女に感じていた。そういう時期があった。距離を、置いていた。毛嫌いではなく、疎ましいわけでもなく、ただ距離が必要と感じた。高校時代まるまる、大学に進学してからもしばらくは、善にとって玲子は「危うい年上の女性」でしかなかった。
玲子が大学に上がった頃、ちょうど善も中学生になった。
なんだかんだで学校生活が忙しくなり、姉のことなど考える余裕がなくなっていき、そして気が付いたら、いろんな感情の清濁を併せ呑んでしまうことを覚えていた。必要だと思っていた姉との距離も、それほど重要なものではなくなっていた。
今年社会人になった玲子だが、善は最初、少し不安だった。正直、何かの拍子に「もうやだ」と駄々をこねて辞めてしまいそうだと思っていたのだ。
でもそれは取り越し苦労だった。大学時代よりも、なんとなく今の方が生き生きしている。よほど今の会社があっているのか、もしくは「外の玲子」を、善は知らないというだけなのか、それはわからない。
この人は「強い人」だと、善は最近思っている。「危うさ」は案外あっさりと上書きされ、彼女の「強さ」がどういうものか、わかってきた気がした。風呂上がりに髪を乾かすスイッチはしょっちゅう忘れるが、重要な商談をモノにするスイッチは忘れない。
そんな感じの強さだ。