43.伸子危機一髪
エレベーターの前に、ひとり取り残された伸子。
笹倉課長から個別に呼び出された。
二人きりで会議室。
安全であるはずがない。
どうしよう。
行かないほうがいいのはわかりきったことだが、一応上司である笹倉の命令を無視するのもまた危険だ。
会田「高根さん、どうしたの?」
伸子は、ハッとして背後を振り返った。
伸子「あっ、会田さん」
どうやら少しボーッとしていたようだ。会田が不思議そうな顔でこちらを見ている。
会田「もうすぐ朝礼始まるよ」
伸子「あっ、は、はい、すいません」
伸子は、恥ずかしそうに席へと戻っていった。
こんな日に限って、朝礼は早く終わる。
この日の所要時間はおよそ5分だった。
有無を言わさずに訪れる恐怖の一時。
笹倉「来い」
いつの間にか伸子の背後にいた笹倉が、地底から唸るような声で囁く。
行かなくては。
意を決して、伸子は席を立った。
この日、朝礼直後の2階には人の気配がほとんどない。
笹倉「入れ」
2階でいちばん小さな会議室へ、伸子は先に通された。
続いて笹倉が入室する。同時に、ドアの閉まる音が、静かに響く。
笹倉「そこへ座れ」
笹倉は、部屋の中央辺りにある椅子へ座るよう命じた。伸子は黙って着席した。
そこより入り口側の席を選び、どかっと腰をおろす笹倉。
“バァン!”
掌底で、手に持っていた資料ごと机を打ちつける音が部屋中に弾け飛ぶ。
ビクリと身体全体を強張らせる伸子。
笹倉は資料をめくる素振りも見せず、伸子を睨み付ける。
笹倉「さぁて……どう教育してやろうかな」
伸子「あの……教育って何をするんですか?」
笹倉「……お前、今年でいくつになる?」
伸子「…はい?」
笹倉「歳だよ、歳。何歳になったんだ?」
伸子「何で突然そんなこと――」
笹倉「いいから答えろよ」
伸子「……27ですけど」
笹倉「27? 柴田とタメか! どうりで頭悪いわけだ」
またこれか。
ここまでくるとイライラを通り越して呆れてくる。
伸子「あの、言いたいことがよくわかりません。そんなお話をするのでしたら通常業務に戻らせていただきます」
伸子は椅子から立ち上がろうとした。
笹倉「待てよ! 勝手な行動をとるんじゃねぇ」
ガシッと伸子の腕を掴む笹倉。
伸子「放してください」
笹倉「上司の指示が聞けねーのか? 座れよ」
伸子「じゃあ、ちゃんと面談やってくれるんですね」
笹倉「いいから座れ!」
伸子「きゃっ!」
掴んだ伸子の腕を、笹倉は強引に引っ張った。伸子の身体が、転がるようにして椅子へと引き戻される。
伸子「な…何するんですか!」
笹倉「最後まで話を聞いていけ」
その頃純は、仲間の清掃スタッフから伸子が笹倉に呼び出されたことを聞き、会議室へ向かおうとしていた。
笹倉が伸子を個別に呼び出すなんて何かある。早く行かなくては。
そんなことを考えながら、早足かつ怪しまれないように会議室を目指す純。
従業員の移動と来客の際に使われるメインエレベーターは怪しまれるかもしれない。階段で行こう。階段は、確か喫煙室の先にあったはずだ。
階段へと急ぐ純。
その途中、喫煙室の前で、部屋から出てきた会田とぶつかりそうになった。
会田「おっと」
純「わっ」
タバコを吸ったばかりなのだろう。身体中にヤニ臭さが漂っている。
そして会田は、手に携帯電話を持っていた。電話でもしていたのか。
会田「これは失礼」
純「こちらこそすいませんでした」
お互い、小刻みに何度も頭をさげながらすれ違っていく。
そのまま後ろを振り返ることもなく、純は階段を駆けおりていった。
2階は、一室を除いて静まり返っていた。
いちばん小さな部屋から、聞き覚えのある中年男性と若い女性の声が聞こえてくる。
伸子と笹倉だろう。
しかし、どこか様子がおかしい。純は注意深く耳をすました。
すると、間もなくガタガタと物音が聞こえてくるではないか。
純「――!?」
何やら争っているような物音だ。止めに行かねば。
勢いをつけようと、後ろ足に力をこめる。
その時だった。
純「――ッ!」
突然、純は前足で踏みとどまり、強引に勢いを押し殺した。それから慌てて目の前にあった柱の陰に隠れ、じっと会議室を観察する態勢をとった。
これまた見覚えのある男が、純よりはるかに素早く会議室のドアを開ける。
会田だ。
会田がタイミングよく会議室の前に居合わせたのだ。
会田「高根さん! 大丈夫かッ!」
伸子「あっ、会田さん!? 助けて! 課長が…課長が……!」
必死で会田にしがみつく伸子。
会田「課長、彼女に何をしたんですか!」
やや気まずそうに会田を見据える笹倉。
笹倉「……面談と教育だ」
会田「そうは思えません。どうして彼女が恐がってるんですか?」
笹倉「……」
会田「まさか、セクハラしたんじゃないでしょうね?」
笹倉「…違う、それはない」
伸子「ウソつかないで! あたしに無理矢理関係を迫ってきたじゃない!」
会田「……彼女がこう言ってますが?」
笹倉「ウソをついてるのはそいつだ。オレはセクハラなんか――」
会田「訴えますよ」
途端に、笹倉は黙り込んでしまった。
会田「……課長、情けないですよ。人のこと言えないじゃないですか。しっかり反省してもらいますからね」
会田が、伸子を連れて会議室から出てきた。
会田「大丈夫だったか?」
伸子「え…ええ。でも会田さん、どうしてここが……?」
会田「外回りへ出かけようとしたら物音が聞こえてきたから、何事かと思ってな。それより、何で高根さんが課長にセクハラされたりするんだ?」
伸子「わかりません。今まであたしに意地悪してきたのに、いきなりあんなことをされて、正直混乱してます」
会田「そうだよな……まぁでも、人事に訴えれば少しはおとなしくなるだろう」
伸子「はい……」
会田「また何かあったらオレに言ってくれよ。いつでも力になるからさ」
伸子「ありがとうございます」
会田「さぁ、仕事に戻ろう」
伸子「……はい」
こうして伸子は、会田に付き添われて営業部のフロアへと戻っていくのであった。
純「おいおい……どうなってんだよ」
伸子が業務に戻り、必死で気持ちを切り替えて臨む一方で、俊作は創に教えてもらった秋葉原のパソコンショップ「ジプシー」に到着していた。
店は、小さな雑居ビルの2階にあった。ドアは閉まっている。飾り気がなく、一見するとパソコンショップだとわからないぐらいに淋しそうな外観だ。
しかし、中に人の気配がする。既に営業は開始しているようだ。
俊作は思い切ってドアノブを回した。
まず俊作の視界に飛び込んできたのは、何段にも積み重ねられたプラスチック製のケースだ。中にはパソコンの部品類がぎっしり詰まっている。これで自作のパソコンを作ったりするのだろう。
一歩、店内へと足を踏み入れる。
正面に、あの積み重ねられたケースが壁となって立ちはだかっているので、左右のどちらかに進めしかない。
俊作は、左に進んでみた。
内部も同様に、あのケースの壁が3~4列ほど立ち並んでいた。
奥のほうから話し声が聞こえる。買い物客がいるようだ。
その声に引き寄せられるかのように、俊作は奥へと進んでいく。
レジは店の奥、入り口側から見て右側の角を陣取って設けられていた。
30代後半と思しき男性がカウンターの向こうにいる人間と会話している。この男性の背中越しに、俊作は少し背伸びをしてカウンターの向こうを覗き込んだ。
年の頃は、おそらく30代半ば。一流大学を卒業していそうな、知的な雰囲気のある男性だ。この男性が三田村だろう。
それから間もなく、男性客は店を出ていった。
すかさずカウンターへ歩み寄る俊作。こちらが声をかける前に、向こうから「いらっしゃいませ」と挨拶してきた。
俊作「…失礼ですが、三田村さんですか?」
三田村「はい、いかにもそうですが……どちらさんですか?」
思い切り警戒した目で俊作を見据える三田村。無理もない。しかし俊作は、表情ひとつ変えることなく創から預かった木札を懐から取り出し、三田村の目の前に提示した。
三田村「それは……」
三田村の表情が一変した。
俊作「黒木創の紹介で来た、柴田という者です。怪しい人間じゃないんで安心してください」
三田村「黒木くんの…? 彼とはどんな関係で?」
俊作「昔からの友達です」
三田村「……あ、もしかして、板橋から来た柴田さん?」
俊作「…え? は、はい、そうですけど…」
三田村「黒木くんから聞いたことがあるよ。板橋じゃケンカ最強だったんだって?」
俊作「あ、い、いや…まぁ…昔の話ですよ。あいつめ、大袈裟に言いやがって」
恥ずかしそうにうつむく俊作。
三田村「でも、話を聞く限りだとみんなから慕われてたみたいじゃないですか」
俊作「そうなんですかねぇ……」
恥ずかしい。早いところ本題を切り出そう。
俊作は無理矢理に昔の話を打ち切ろうとした。
三田村「――そういえば、昨夜その黒木くんから連絡がありましてね。“柴田さんがこの数日中にウチを訪ねてくるからよろしくやってくれ”って言われて、それで思い出したんですよ、前に黒木くんが話していたことを」
俊作「あ…そうだったんですか」
三田村「で……どんな用件なんですか? 黒木くんからその札を借りてくるってことは、ただの買い物じゃないみたいだけど」
よかった。
本題を切り出せる。
俊作「……三田村さんは、コンピューター関係に精通してるそうですね」
三田村「まぁ……そんなに詳しいわけじゃないですけど」
俊作「今日ここへ来たのは、あるソフトが実在するか否かをお聞きするためです」
三田村「ソフト?」
俊作「――他人のパソコンを、覗き見したりネットワークを通じて遠隔操作したりできるソフトってありますか?」
三田村「む…それはちょっとアンダーグラウンドな話ですね。差し支えなければ、何があったか聞かせてもらえませんか? 何故そんな質問をするのか知りたい」
俊作「わかりました。お話ししましょう」
俊作は、マグナムコンピュータで受けた仕打ちを話した。
自身の入力ミスだとされる発注書のこと、何故か笹倉に知られていた藤堂部長の社内メール、そしてソフトが存在する可能性を示唆してくれた湊刑事――。
三田村は、ただそれを興味津々に、カウンターから身を乗り出して聞いていた。
三田村「――なるほど、あなた自身や周りの人が被害にあわれたかもしれないということですね?」
俊作「はい。どう考えても自然のなりゆきとはいえないんじゃないかと思うんです。他にも被害が出ているようですし…」
三田村「そうですか……」
そう言って、三田村はゆっくりと店の出入口へと歩いていった。
何をするのだろう。
ドアを閉める音が聞こえる。施錠までしているようだ。
そしてカウンターまで戻ってきた三田村はこう言った。
三田村「ありますよ、そんな手合いのソフトが」




