生贄
魔王レビュアータを腕に抱き、地裏ムカサは慌てた。巨大な蛇であるといわれる魔王レビュアータは、眠り続けているはずだ。目覚めるときに世界がほろぶとまで言われ、寝返りをうつだけで巨大地震が起こると信じられている。
どうしてムカサの腕の中にいるのかはわからなかったが、起こしたら世界がほろぶかもしれないのだ。
とにかく、起こさないことだ。
ムカサは腕の中の若い女性、レビュアータを自分のベッドに運ぼうとした。
動けなかった。四肢にかかる負担は、人間の女性を抱えた時の比ではない。姿は若い女性でも、本来の姿は地球を何週もするほどの大蛇である。持ち上がるはずがない。その重さで契約相手のムカサを潰すことはなかったが、持ち上げさせてくれるほどやさしくはないというところだろう。
レビュアータを抱えたまま、ムカサは身動きができなくなっていた。
女性のまぶたがけいれんする。
ゆっくりと、薄く、まぶたが上がる。
ムカサは悲鳴を押し殺した。
「昼間は、苦労したようじゃな」
若々しく、だが同時に重い声だった。レビュアータの声だと感じた。
――世界は、滅びるのか?
「安心せい。まだ夢の中じゃ」
レビュアータが寝がえりを打つと、大地震が起きると言われている。とても安心はできなかった。だが、世界はほろんでいない。何より、毎日祈りを捧げていた相手が自ら姿をあらわしてくれたのだ。怒らせないように、起こさないように、少しぐらいは喜んでもいいだろう。
「呪いの家のことを、ご存知なのですか?」
昼間は後れをとったと感じていた。だからこそ、普段より余計に自らを痛めつけていたのだ。ムカサは知りたかった。自分が弱いわけではないという、確かな証が欲しかった。
「誰も呪ってはいない」
「では……俺は誰と戦ったのですか?」
端正な女性の顔から、牙が覗いた。笑ったのだと、この時ムカサは気づかなかった。
「お前はただ惑わされただけだ。戦いにすらなっていない。あれは、私と近い」
「……魔王の一人ですか?」
「いや、魔王ではない。世界結界がほころびると、常に自己修復される。修復の過程で、粗雑なゴミが生まれるのだ」
「……では、あれは世界結界の一部」
「もはや一部ではあるまい。世界結界の垢とでも呼ぶべき存在だ。いずれ消滅するか……力をつければ魔王の誕生となるかもしれん」
――力……プラーナか……。
世界に存在する者は、すべて『プラーナ』と呼ばれる力を持つ。プラーナなしでは存在することができず、プラーナは世界に存在し続ける力そのものである。ウィザードはイノセントに比べて圧倒的に大量のプラーナを持ち、それゆえに様々な能力を開発させている。
「なるほど。だから、ウィザードを狙っているのですね。効率よくプラーナを回収できるように」
「今のあれに、それほどの知恵はあるまい。今はただの現象にすぎまい。お前は、自然現象を相手にしているようなものだ」
「……では、どう戦えば……」
このまま、二度とあの家に行かなければいいのだろうか。ムカサは同級生の呪香ミツコを思いだした。あのミツコが、このまま関わることを避けるとは思えなかった。
レビュアータは何も言わなかった。あるいは、再び深い眠りに入ったのかと思った。片腕がゆっくりと上がり、人の姿をしたレビュアータの細いしなやかな指先が、ムカサの額に触れた。
――頭……脳……精神か?
あえて質問を重ね、レビュアータが目覚めては世界が滅びる。ムカサはレビュアータの真意を推測することしかできなかった。
「……腹が減った。このままでは、目が覚めてしまいそうじゃ」
ムカサの耳元で、レビュアータがささやいた。ムカサの全身が、汗で覆われた。
「何か、食べ物を……」
「このままでよい」
ムカサの額に触れていたレビュアータの指先が、手のひらに変わる。ムカサの頭部を掴み、レビュアータがムカサを床に押し倒した。抵抗できる力ではなかった。まるで、大地に抑え込まれるかのようだった。
「なっ、何を……」
「肉を食らうと死んでしまうからな。血だけで我慢してやろう」
ムカサの体内に、鋭い牙が入る。あまりにも長く、骨にまで届くのではないかと思われた。ムカサは動けなかった。力を入れることもできなかった。レビュアータの牙には毒が入っているのかもしれない。全身を襲う苦痛に、声すらも出せず、永遠にも続くかと思われた被捕食者としての時間が終わるときには、ムカサの意識は途切れつつあった。
「美味い血じゃが……少し、飲みすぎたか?」
それが、この夜にムカサが聞いた、最後の声だった。




