第十四話
さらりとした手触り。
布が擦れる音。
手元の着物を持ち上げて、時雨は丁寧に傷んだ場所を確認していく。
裾が少しほつれ、袖も取れてしまいそうだ。
「……継ぎ布は必要なさそうですね」
薬草を採っている時に、低木に着物を引っかけて慌てていた玄兎の姿を思い返し、時雨は一人笑みを浮かべていた。
繕う必要がありそうな玄兎の着物を数着、そして、玄兎が選んでくれた着物を手元に並べる。
「……玄兎が帰るまでに、せめてこちらは終わらせないといけませんね」
小さく呟きながら、時雨はすっかり手に馴染んだ手袋を外す。
繕い物の邪魔になる……それに、宿にいる間は外していて欲しいと玄兎に言われていた。
玄兎の着物、特にほつれが酷いものに手を伸ばし、直していく。
針仕事は昔から嫌いではない。
没頭しているだけで、静かに時間が過ぎていくから。
一針ずつ丁寧に刺していくが、思うほどに綺麗な仕上がりにはならない。
もっと上手く出来ればいいのだが……好みと得手不得手は別だ。
「……こんなものでしょうか」
着物を広げて、まだ解れている箇所がないかを確認していく。
時雨は一つ頷いて、次の着物に手を伸ばした。
玄兎の着物の修繕を終え、時雨は一度息を吐く。
玄兎は喜んでくれるだろうか。
「宿で待たせて貰うだけなのは、少し申し訳ないですね……」
今頃は薬師として皆の相談にのっているのだろう。
ふと、診察をしていた玄兎の真摯な様子が頭に浮かんだ。
それと同時に、修行と称して、勝手に採ってきた薬草を調合していたら怒られたと拗ねていた幼い玄兎を思い出す。
つい、頬を綻ばせてしまうが、村を出て、師について貰い、町で修行に数年を費やした玄兎を幼い頃と比べるのは失礼だったかもしれない。
「……玄兎はそれだけ努力なさったんですよね」
自分は変われているのだろうか。
玄兎は村から時雨を連れ出して、その後の生活まで面倒を見て支えてくれた。
立派に薬師として自立している。
そんな玄兎に何を返せるのだろうか。
「……時雨!」
襖の向こうから聞こえた声に時雨は慌てて顔を上げた。
すぐに襖が開かれ、時雨と目が合った玄兎は嬉しそうに瞳を和らげる。
「……あ、おかえりなさい」
「ただいま」
玄兎は荷物を下ろして、時雨の傍まで歩み寄る。
「……俺の着物、繕ってくれたんだ! ありがとう」
「玄兎……針が、危ないです、から」
少しの間離れていただけだというのに、熱烈に抱き締める玄兎に、時雨は眉を下げながらそう告げる。
「……確かに、そっか」
一度腕を離した玄兎は、期待するように時雨を見つめる。
時雨は針を袋にしまい、きっちりと口を閉じてから、おずおずと玄兎に向き直った。
「ええと……その、どうぞ」
時雨が頬を赤くしながらそう告げると、玄兎は待っていたとばかりに、再び時雨を腕の中に捕まえた。
「……ありがとう。すごく嬉しいし、助かるけど……休んでても良かったんだよ?」
「……いえ、私にはこのくらいしか出来ませんので」
「充分だよ。……あ、そうだ」
玄兎は思い出したように自分の懐を探り始める……時雨の腰を抱く手を離せばもっと探しやすいだろうに、それをするつもりはないようだ。
時雨はそんな玄兎に困ったような、楽しげな笑みを浮かべてしまう。
「はい。これ……」
差し出されたのは綺麗な櫛だった。
「……これは?」
顔を上げた時雨の視界に、無防備な笑みを浮かべる玄兎の顔が映る。
「時雨はあんまり興味ないかもしれないけど……これで手入れしたら、きっともっと綺麗になるんだろうなって思って。……つい買っちゃった」
時雨は櫛を両手で受け取り、じっと見つめてしまう。
「……本当は、もっと綺麗なのとか細工が凝ってるのを贈りたかったんだけどね。ちょっと、厳しくて」
眉を下げる玄兎に時雨は首を横に振る。
「……ありがとう、ございます」
確かに飾り気も装飾もない櫛かもしれない。
しかし、時雨にとっては他のどんな美しい櫛よりも輝いて見える。
ここまでしてくれる玄兎に、時雨は何を返せば良いのだろうか。
「……時雨、お願いがあるんだけど」
「……なんでしょうか?」
玄兎のお願い。
それを叶えられたら、お返しになるのだろうか。
自分に何が出来るかは分からない。
それでも精一杯やり遂げなくてはと、時雨は顔を上げる。
「これで、毎日時雨の髪の手入れさせて欲しいなぁって、思って」
……それは、お願いになるのだろうか。
玄兎の言葉に時雨は肩透かしを食らってしまう。
「それは……お願い、ではないのでは……?」
「……駄目?」
「駄目、ではありませんが……」
ねだる視線にやはり時雨はそう答えてしまう。
玄兎は嬉しげな声をあげながら、時雨をぎゅっと抱き締めた。
そのまま、玄兎は時雨の手から櫛を受け取り、傍の荷物の上に丁寧に置く。
「……時雨、もっと綺麗になっちゃうね」
耳元で囁かれて、時雨の肩が小さく跳ねる。
「綺麗なんて、そんなことは……」
熱くなった時雨の頬に、柔らかい感触が押し当てられる。
「綺麗だよ。……可愛いのもあるけど」
告げながら、玄兎は頬やこめかみ、首筋に何度も口付けた。
いつも二人きりの時、玄兎はこうして時雨に触れてくる。
時雨も嫌なわけではない。
ただ、羞恥でどうして良いか分からなくなるのだ。
「時雨、好きだよ……」
玄兎はこういった深い触れ合いを望んでくれているのだろうか。
それなら……。
「あの、玄兎……」
「ん? どうしたの?」
羞恥を押し殺し、時雨はそっと自分の着物に手をかけた。
玄兎が動きを止めて、瞳を大きく見開く。
「玄兎が……あの夜のような、触れ合いを望んでおられるのなら……」
一度経験しているのだから、ちゃんと出来るはずだと自分に言い聞かせても、羞恥で手が震えてしまう。
こんなことでお返しになるかは分からないが。
「……嬉しい」
ポツリと呟いた玄兎が、着物をはだけさせようと震えていた時雨の手を、優しく包み込むように握る。
「でも、それは時雨がしたくなってからがいいな。……その方がもっと嬉しいから」
嬉しそうに頬を綻ばせながら告げる玄兎に、時雨は無意識のうちに強張っていた身体から力を抜いた。
「……その方が、俺も嬉しい」
そのまま時雨の手に何度か口付けをしてから、玄兎はふにゃりと笑みを浮かべる。
時雨は少しの間視線をさまよわせてから、眉を下げ、玄兎を見つめ返す。
それでは、何を返せば良いのだろう。
貰ってばかりではいけないと分かっているのに、どうして良いかが分からない。
「……でも、ここには触れたいな」
時雨の着物の乱れを軽く整え、そのまま玄兎の指が時雨の唇へ伸ばされた。
耳まで赤く染めながら、小さく頷いた時雨の腰が抱き寄せられる。
瞼を閉ざし、玄兎と繋いだ手に力が入ったまま、唇に触れるその瞬間を待った。
しかし、柔らかな感触は唇ではなく頬に落とされる。
時雨が困惑して目を開ければ、悪戯っぽい笑みを浮かべた玄兎がいた。
「あの……」
「……時雨、可愛い」
次々に顔中に触れていく唇に、時雨はますます顔を赤くする。
何度も触れる唇がくすぐったくて、思わず笑みが溢れた。
玄兎は愛しさで蕩けたような瞳で時雨を見つめ、頬に手を添え、そのまま唇を重ねる。
少し力が入った時雨の手を、玄兎は優しく指先で撫でる。
何度も触れられていると、次第に力は抜けていった。
「時雨、好きだよ……」
口付けの合間に渡される玄兎の言葉に、時雨が何かを返す前にまた唇が塞がれる。
その感覚が心地よくて、時雨は玄兎に身を預けて、ただ受け入れ続けた。
時雨の息が苦しくなる前に、唇の温もりが離れ、代わりに全身を包み込むように優しく抱き締められる。
「……ずっと、一緒なんだから。もう、焦らなくていいんだよ」
耳元で聞こえた玄兎の言葉に、時雨は黙って玄兎の肩に顔を埋めていた。




