片腕の帰還兵、親友の最期の手紙を届けに行ったら盲目の妹が待っていた
左手がないという事実は、思っていた以上に重かった。
肩から先が空白になっただけで、世界の色がこんなにも薄くなるとは、戦場にいた頃の俺は知らなかった。
退役を命じられた日の帰り道、俺は軍服の袖を風に揺らしながら、ただ歩いた。
無謀な作戦だった。
敵の伏兵を読み違え、包囲され、仲間は全滅した。
俺だけが生き残った。
──いや、正確には、生かされてしまった。
親友のカイルは、俺の目の前で倒れた。
血に濡れた手で俺の胸倉を掴み、何かを言おうとして、結局言えずに息を引き取った。
あの時の温度が、まだ胸に残っている。
故郷の村に戻っても、俺は何もできなかった。
鍬も持てない。
荷物も運べない。
村人は優しかったが、その優しさが逆に胸を刺した。
夜、眠れずに古い荷物を漁っていると、革袋の底から一通の封筒が出てきた。
──カイルの字だ。
「……そういえば、預かってたな」
戦場に出る前、互いに“もしもの時”のために家族への手紙を交換した。
その時は笑っていた。
まさか本当に渡す日が来るとは思っていなかった。
封筒の宛先には、小さな村の名前が書かれていた。
聞いたことのない村だった。
俺はしばらく封筒を見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
「……渡しに行くか」
理由は分からない。
ただ、何かをしなければ、俺は本当に壊れてしまう気がした。
村までの道のりは長かった。
左手がないだけで、旅はこんなにも不便になる。
荷物の重さが肩に食い込み、何度も立ち止まった。
ようやく辿り着いたその村は、静かで、どこか寂しげだった。
村の中心に、小さな建物がある。
壁に掲げられた木の看板には、こう書かれていた。
「孤児院 ひだまりの家」
孤児院──?
カイルの家族は、孤児院の子どもたちだったのか。
戸を叩くと、しばらくして中から少女の声がした。
「……どなたですか?」
扉が開く。
そこに立っていたのは、黒髪の少女だった。
だが、彼女の瞳は焦点を結んでいない。
「すみません。ここに、カイルという男の家族が……」
少女の肩が小さく震えた。
「……兄を、ご存じなのですか」
兄。
やはり、彼女がカイルの妹か。
「俺は……戦友だった。これを、預かっていて」
封筒を差し出すと、少女は両手でそっと受け取った。
だが、彼女は封筒を開けようとしない。
「……読めないんです。私、目が……」
言葉を詰まらせる彼女に、俺は静かに言った。
「よければ、俺が読む」
少女は小さく頷いた。
俺は封を切り、震える指で便箋を広げた。
便箋には、カイルの癖のある筆跡が並んでいた。
読み上げる前に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……読んでください」
少女の声は震えていた。
俺は息を整え、ゆっくりと読み始めた。
『ミナへ。
この手紙を読んでいるということは、俺はもう帰れなかったんだろう。
ごめんな。約束を守れなかった。』
少女の指が便箋を掴む音がした。
『お前を一人にしてしまうことが、何よりつらい。
だけど、どうか生きてほしい。
俺がいなくても、お前ならきっと大丈夫だ。
誰より優しくて、誰より強い妹だから。』
ミナの頬を、涙が静かに伝っていく。
そして、最後の段落に差し掛かった時、俺の喉が詰まった。
『それから──俺の親友へ。
お前はきっと、生き残ったことを責めるだろう。
だが、それは違う。
俺はお前が生きてくれて嬉しい。
どうか、俺の代わりにミナを守ってやってくれ。
……最後の頼みだ。』
読み終えた瞬間、ミナは声を殺して泣いた。
俺は何も言えなかった。
胸の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
カイル……お前、こんなことを……。
ミナは涙を拭い、かすかに微笑んだ。
「……兄は、あなたを信じていたんですね」
「……ああ。俺なんかより、ずっと強い男だった」
「そんなこと……ありません。きっと兄は、あなただから手紙を託せたんだと思います。
あなたは実際に兄のために、わざわざ届けてくれた」
俺は言葉を失った。
その夜、孤児院に泊めてもらった。
ミナは子どもたちを寝かしつけ、俺の前に座った。
「……兄の願いを、叶えてくれてありがとうございます」
「まだ何もしてないさ」
「来てくれただけで、十分です」
ミナの笑顔は、どこか儚くて、けれど温かかった。
翌朝、村長に挨拶に行くと、村の状況を聞かされた。
「若い者は皆、王都へ行ってしまってな……。
この村には、衛兵が一人もおらんのだ。
魔物が出ても、誰も対処できん」
村長の言葉を聞きながら、俺は自分の左袖を見た。
空っぽの袖が風に揺れる。
戦えない。
それは事実だ。
だが──守ることなら、まだできる。
「……俺がやります。村の衛兵を」
村長は驚いた顔をした。
「だが、お前さん、その腕では……」
「片腕でも、剣は振れる。
それに……守りたいものができた」
ミナの笑顔が脳裏に浮かんだ。
村長はしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「……頼む。村を、子どもたちを守ってくれ」
それからの日々は、静かで、穏やかだった。
俺は村の見回りをし、畑を荒らす魔物を追い払い、
孤児院の修繕を手伝い、ミナの買い物に付き添った。
ミナは俺の足音で、すぐに気づくようになった。
「……あ、来た。あなたの歩き方、すぐ分かります」
「そんなに特徴あるか?」
「はい。優しい足音です」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
子どもたちも懐き、孤児院には笑い声が増えた。
ミナもよく笑うようになった。
俺は気づいていた。
この村での生活が、どれほど心を救ってくれているかを。
そして、ミナの存在が、どれほど大きくなっているかを。
だが、幸せな日々は長く続かなかった。
ある日、村に不穏な噂が届いた。
「森の奥で…… “強力な魔物”を見た者がいるらしい」
村長の顔は青ざめていた。
「もし村に来たら……ひとたまりもない」
俺は静かに剣の柄を握った。
「……行ってくる」
「一人で行く気か!?」
「俺が行かなきゃ、誰が行く」
ミナの笑顔が脳裏に浮かぶ。
カイルの声が、胸の奥で響く。
──ミナを守ってやってくれ。
「大丈夫だ。必ず戻る」
そう言い残し、俺は森へ向かった。
森は、昼でも薄暗かった。
木々の間を抜ける風が、どこか冷たい。
その冷たさが、これから起こることを予感させる。
足跡は深く、土を抉っていた。
大きい。
そして、重い。
「……間違いない。フォレストタイガーだ」
剣を握る右手に力が入る。
左手がない分、踏み込みと体重移動で補うしかない。
奥へ進むと、腐臭が漂ってきた。
獣の死骸が転がっている。
その中心に──それはいた。
黒い毛並み。
異様に膨れた筋肉。
赤い目が、こちらを射抜く。
「グルルル……」
フォレストタイガーは低く唸り、次の瞬間、地面を砕いて飛びかかってきた。
「──ッ!」
剣を構え、横に跳ぶ。
だが、片腕では受け流しが甘い。
衝撃が肩に走り、体が弾き飛ばされた。
木に背中を打ちつけ、息が漏れる。
「……まだだ」
立ち上がる。
足が震えている。
それでも剣を握る。
フォレストタイガーが再び突進してくる。
その瞬間、俺は地面を蹴った。
「うおおおおッ!」
渾身の力で剣を振り抜く。
刃がフォレストタイガーの首筋に食い込み、血が噴き出した。
フォレストタイガーは咆哮を上げ、暴れながら倒れ込む。
その巨体が地面を揺らし、やがて動かなくなった。
勝った──。
そう思った瞬間、腹部に激痛が走った。
見ると、フォレストタイガーの爪が深く抉っていた。
「……やっちまったな」
血が止まらない。
足元がふらつく。
それでも、帰らなければならない。
ミナが待っている。
カイルとの約束がある。
「……帰る。絶対に」
木々に手をつきながら、俺は村へ向かった。
村の灯りが見えた頃には、もう視界が霞んでいた。
孤児院の前まで辿り着いた瞬間、扉が開いた。
「……あなた、ですか?」
ミナの声。
足音で気づいたのだろう。
「ただいま……」
そう言ったつもりだったが、声になっていたかは分からない。
ミナは駆け寄り、俺の体に触れた。
その手が血で濡れ、震える。
「……どうして……どうしてこんな……!」
「魔物は……倒した。もう……大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません……! あなたが……!」
ミナの声が涙で震える。
俺は微笑もうとした。
「泣くなよ……ミナ。お前の……泣き顔は……似合わない」
「……言わないで。そんな……終わりみたいな言い方……」
ミナは俺の胸に顔を埋め、必死に言葉を絞り出した。
「……私……あなたが……好きでした。
兄がいなくなって……ずっと怖かった。
でも……あなたが来てくれて……
あなたがそばにいてくれて……
私……生きていけたんです……」
胸が熱くなる。
こんなにも大切な言葉を、俺なんかがもらっていいのか。
「……俺も……好きだ。
お前と……生きたかった……」
ミナが顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、俺の方を向いている気がした。
「行かないで……お願い……」
「……ごめん。ミナ……」
体が重い。
意識が遠のく。
最後に、心の中で呟いた。
──カイル。
すまない。
最後まで……見守れなかった。
ミナを……悲しませて……すまない。
でも……
お前の妹は……強いよ。
きっと……大丈夫だ。
暗闇がゆっくりと広がる。
その奥で、懐かしい笑顔が見えた。
カイルが、あの日のままの姿で立っていた。
「……待たせたな」
そう呟いた瞬間、俺の意識は静かに途切れた。
翌日、村人たちは孤児院の前に小さな墓を作った。
ミナはその前に膝をつき、静かに祈り続けた。
「……ありがとう。
あなたが守ってくれた村で……私は生きていきます」
風が吹き、墓の上の花が揺れた。
まるで、彼が微笑んでいるように。




