恋心、とは。
「おや、大変ですね。」
さすがに医師も慌てた顔をして、猫の死体を実験室に置いてくると、セリオを診察台に寝かせた。
「大丈夫ですね。すこし昏倒しているだけで、身体に異常があるわけではなさそうだ。何か精神的なダメージを受けられたのですか?」
思わずピアと梨亜は白い目で医師を見てしまう。
「セリオは猫が苦手なんです。先生が猫の死体を持って現れるから、その姿にショックを受けたのかと。」
「それは失礼しました。」
医師はそれで思い出したらしく、そわそわとしはじめた。
「この患者さんはしばらくしたら目を覚まされると思いますから、そのときはこの気つけ薬を飲ませてください。では、私はこれで。」
戸棚からなにか薬の瓶を出してピアに預けると、医師は実験室に籠ってしまった。思う存分解剖のメスを奮うのだろう。ピアはため息をつきながら、薬を希釈したものをコップに入れ、梨亜に渡す。
「はい、これお姉ちゃんが飲ませてあげて。私はお兄ちゃんと穴掘ってくる。薬のお代はいらないよ。だって先生が悪いんだからね。」
「ごめんね、ピア。」
「ううん……おねえちゃんがあんまりこの副議長さまのとこのおにいさんと結婚する気になれない理由、私なんとなくわかった気がするよ。」
「………。」
梨亜がなにも言えないうちに、ピアは外へ出て行ってしまった。しばらくすると、セリオがうめき声を立てる。
「セリオ、大丈夫?これ飲んで?」
「ありがとう…。」
セリオはゆっくりと体を起こし、コップの薬を飲みほした。
「ごめん、しまらない男で…。これじゃリアナに愛想つかされてもしょうがないな。」
セリオはがっくりと肩を落とす。どうやって慰めよう、と梨亜も言葉を探していたが、セリオはきっと顔を上げた。
「いや、でも情けない男でも、言いたいことは全部言う。先生はどこ?」
「先生は、いまは実験室で猫の腑分けの真っ最中。」
梨亜が言うと、セリオは顔を蒼くして、またしても診察台に倒れこんでしまった。
セリオの一世一代の直談判は、しまらない開始になったが、それでもちゃんと行われた。
「先生は、リアナを連れて旅に出られるつもりだと伺いましたが、それは本当ですか?」
「ええ、彼女にその心づもりがあるならば。」
「なにをお考えですか?若い女の子が、男性と二人で旅をされるという意味を正しく理解しておいでですか?」
「世間体のことですか?それならば、私も彼女もそんなことは気にしないと思いますが。」
「そもそも、なんでリアナと旅をしようと思いつかれたのですか?」
「彼女は『真珠姫』をやっていくのがつらそうだ。南都ではもう有名になりすぎて息苦しいでしょう。それには私にも責任の一端がある。しばらく南都から離れて、どこかで自由に息をさせてあげたほうが良いという、医師としての私の判断ですよ。」
「……医師としてのご判断、というのはわかりますが、先生の責任とは?」
「お聞き及びじゃないですか?彼女は私にずっと医療費の支払いを続けてくれています。彼女が『真珠姫』などをされているのは、そのためですよ。でも、過労と精神的疲労で、彼女は倒れる寸前です。だから、旅に出してあげようと思ったのですよ。」
「リアナ……、先生への支払いってどういうこと?」
とうとう知れてしまった。梨亜は観念する。
「私の事故の時の怪我の治療費と、その他もろもろよ。」
「なに、もろもろって。いったい総額いくらになるの?」
「それは…。」
セリオに問われて思わず梨亜は口ごもる。すると医師が話を引き取った。
「今までリアナさんが私に支払った額はおよそ四万バニーほどです。ご自分の医療費だけでなく、ここで治療を受けられた娘さんのものも一緒に支払われています。」
「そんなに……。」
セリオが絶句する。
「あなたは人でなしだ。若い女の子にそんな高額を平気で要求するなんて。しかも他人の治療費まで支払わせるとか。」
「違うの、セリオ。私が自分で言い出したことなの。私のわがままで、先生にもいらない苦労をかけちゃったし。」
梨亜は必死で言い訳をする。
「高額な薬を、私が支払うから患者さんに使ってあげてください、ってお願いしたのは私自身だから。それを先生は私に支払えなんておっしゃらなかった。私が好きでしていることなの。それに、先生はその希少な薬を取りに行くために、長い旅もされないといけなかったの。私は私自身の行動の責任を取っているだけだから、先生を責めないで。」
「だけどね…、リアナ。四万バニーっていったら大変な額だよ。下手したら庶民の一家が二年ぐらい食べていけそうな額だ。」
さすがセリオは貴族と言うだけではなく、商売人として貨幣価値をよくわかっているようだ。
「それに、あの薬草を育てるために、ペペと先生がどれだけ苦労されているか私、よくわからないままに勝手なことを言い出した。これは私の問題なの。それに、真珠姫やるのはつらいばっかりじゃない。自分の考えたアクセサリーをみんなに喜んでもらって、売れていくのを見るのは楽しかった。悪いことばっかりじゃないの。ただ、もうこれ以上『真珠姫』を続けていくのは無理があるし、体に疲れもたまってるみたいだから、今シーズンが終わったら少しお仕事にお休みをもらいたいの。」
「リアナ……。」
「ですからね、リアナさん、これ以上の支払いは結構ですから、決心がついたら、いつでもおっしゃってください。私たちは支度をして待っています。」
医師が口をはさむと、セリオはきっとした顔で医師を見すえた。
「先生、あの双子の兄のほうを西都の学校にお入れになるのは本当ですか?そのあと、先生はリアナを連れてどうするおつもりだったんですか?」
「そうですね、二人で旅を続けるのもいいし、リアナさんが気に入った場所があれば、どこかで家を借りて、一緒に住まいましょうか。南都でなくても、医師はどこでも重宝されますからね、リアナさんがアクセサリーの勉強をされる間の暮らしぐらいはなんとかなると思いますよ。」
「一緒に住む?二人で?そんな馬鹿な!」
セリオの口から泡が飛ぶ。
「もちろん、貴族のお嬢さまに家事をさせるわけにいきませんから、メイドはやとうつもりですよ、二人きりとは言えません。」
「そういう問題ではないです!男女が一つ屋根の下に住む、となれば、世間は普通の目では見ません。あなたのやろうとしていることは無責任な行動と言えますよ。」
「先ほども言ったように、彼女も私も世間体を気にするほうではありませんから。」
梨亜は頭痛がしてきた。どこまでも二人の話し合いは平行線だ。
「セリオ、もうやめよう。」
梨亜はセリオの肩をそっとゆするが、セリオにふり払われる。
「いいですか、僕は彼女と結婚するつもりです。それなのに、彼女とほかの男性が同居するなど、断じて許せない!」
「別に私は彼女に、旅も同居も無理強いするつもりはありませんよ、彼女がそうしたいなら、そうしよう、というだけで。あなたの意見よりも、世間体よりも、私は彼女自身の意見を尊重しますね。」
「ひとつ聞きたい。世間体とか常識とか、あなたに通じないから、本心を聞かせてください。……あなたは、ほんとうにリアナを女性として、少しも恋心を抱いていないのですか。」
そう言われて、真剣な顔で医師はうつむいて少し考え込んだ。なぜか梨亜の胸は高鳴った。梨亜にとって長い時間とも思えるときの後、医師は顔を上げた。
「そういう可能性について、今まで少しも考えたことはありませんでした。それで自分の胸に訊いてみましたが、答えは否、です。もし、彼女にそういう気持ちが少しでもあれば、私もあなたと同じように、あなたとリアナさんが一つ屋根の下に住むことに抵抗する気持ちが湧くのでしょうが、私はそれは何とも思いません。今日もあなた方は連れ立ってやってきて、そして、同じ家に帰っていくのでしょうが、それに私は嫉妬する気持ちなどまったく抱きませんから。」
医師の答えは明確で、よどみなかった。それを聞いてなぜか梨亜は気持ちが落ち込んでいった。




