4 教会
青年の手助けのもと部屋を出たアンリエットが教えてもらった方向に駆け出すと、少し進んだところで教会の証である独特のシンボルが目に入った。しかも、幸運なことに教会へと続く道にほかに人影はなく、誰にも見られることなく進むことができた。そうして息を切らせながら教会まで辿り着くと、教会の外では一人の年若いシスターが朝の清掃奉仕を行っているところだった。
「はあ……はあ……あの、すみません!」
「はい、何かご用ですか?……あら!さあ、どうかこちらへいらしてください」
アンリエットが声をかけると、シスターはその姿を一目見て何かのトラブルに遭ったのだと察し、人目につかないようにと教会の奥の一室へと案内してくれた。その部屋は少人数用の礼拝室なのか小さな祭壇といくつかの椅子が置かれているだけの質素な部屋だったが、その静けさは幾ばくかの安らぎをアンリエットにもたらしてくれた。
シスターは一先ずアンリエットを椅子に座らせると、いつの間にか持ってきたコップに水差しから水を注いで差し出した。
「こちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
差し出された水を一息に飲み干し、アンリエットはシスターにお礼を告げた。
「何がありましたか? どうぞ、話せる範囲で構いませんので、ゆっくり仰ってください」
気持ちが落ち着くようにと背中をさすりながらシスターがそう問いかけると、脱出できた興奮から醒めた途端に押し寄せてきた恐怖と戦いながらアンリエットはぽつぽつと自分の身に起きたことを語っていった。
その説明は最初は要領を得なかったり、出来事が前後に行ったり来たりしたが、しゃべっているうちに、アンリエットの中でも段々と整理が進んでいった。そうして、夜会の帰りに誘拐された事、目覚めると見知らぬ青年と宿屋の一室に寝かされていた事、青年の助けによりその部屋から抜け出してここに辿り着いた事……一通りを話し終えて、実家に連絡を入れてもらおうとしたところで、アンリエットは自分がまだ自己紹介をしていなかったことに気付いた。
「申し遅れました。わたしの名はアンリエット・メラール。メラール男爵家の娘です。王都の屋敷に連絡を入れていただけませんか?」
「アンリエット様、大変怖い目に遭われましたね。ご安心ください、私たち教会は救いを求める者を決して見捨てません」
そう言ってシスターは恐怖に震えるアンリエットをゆっくりと抱きしめ、メラール家の迎えがくるまでアンリエットの傍にいて寄り添い続けてくれた。
やがて、連絡を受けて駆けつけたクロエが部屋に飛び込んできた。
「お嬢様!」
「クロエ!」
一夜ぶりに再会を果たした主従は抱き合って再会を喜び合った。
「あの時無理にでも付いていけばこんなことには……本当に申し訳ありません。クロエは侍女失格でございます」
「そんなこと言わないで。あの時一人で付いていくと決めたのはわたしなんだから。……でも、うっ、ほんとうに、もう、みんなに会えなかったらどうしようかと……うううっ」
無事に侍女と再会できて安心したアンリエットは泣き出してしまい、落ち着くまで少しの時間を必要とした。
「お嬢様、落ち着かれましたか?」
「ええ、みっともないところを見せてしまったわね」
「それで、あの後お嬢様に一体何があったのでしょうか? ここの教会から保護していると連絡をいただいて駆けつけましたが、詳しいことは何も聞いておりません。話しづらいかもしれないですが教えていただけないでしょうか?」
そうクロエから問われたアンリエットは自分の身に何が起きたのかを語った。話すのは二度目だからか、それとも身内相手だからなのか、シスター相手に話した時よりもスムーズに説明することができ、伯爵令嬢に間違われたことにも触れた。
「そのようなことが……。その青年というのは一体誰だったのでしょうか?」
「わからないわ。貴族だとは思うのだけど、素性を窺わせる物は何も身に付けていなかったもの。ところで、クロエ達の方はあの後どうなったのか聞かせてくれる? その……大きな事件になっていたりするのかしら?」
「ご安心下さい。大きな事件にはなっておりません。あの後、私は御者と共にお嬢様をお待ちしていたのですが、あまりにも遅いものですから御者をルシーニュ伯爵邸に確認に送ったところ、リリアンヌ様は御帰宅済みでお嬢様をお呼びした事実などない、というお返事を頂きました。ただ、お嬢様を呼びに来た護衛の所在が不明ということも判明しまして、ルシーニュ家絡みのトラブルに巻き込まれた可能性もある以上は協力を惜しまないと仰って下さり、お力を借りて内密に捜索をしているところでした」
クロエの説明を聞いてアンリエットは安堵した。もし誘拐されたことが広く知られていた場合、自分の名誉だけでなく家の評判にまで傷ついていたかもしれないからだ。
「そう、貴女たちに何も無かったのなら良かったわ。心配をかけてしまったわね」
「それで、その実はリリアンヌ様もお詫びを伝えたいといらっしゃる予定なのですが、お会いになられますか?」
「えっ、リリーが!?」
「はい。お嬢様の行方がわかり次第、ルシーニュ家にも連絡が届くようになっておりましたのでそろそろお着きになる頃かと」
「……クロエは今回の件、ルシーニュ家が関わっていると思う?」
その疑問はこれまで何度かアンリエットの心の中に浮かんだ疑問だった。自身にとってもメラール家にとっても最も馴染み深い伯爵令嬢といえばリリアンヌであり、その護衛が手引きした以上はリリアンヌによって身代わりとして差し出された、という解釈はいくつもの違和感を無視すれば一つの仮説にはなり得た。
「正直に申し上げればわかりません、としか。護衛が手引きしている以上は無関係ということはないと思いますが、お嬢様とリリアンヌ様を間違えるというのはその……なかなか難しいことでしょうし」
クロエは言葉を選んでいたが、明るめの金髪に華やかな顔付きをしていて誰もが美人と褒めたたえるリリアンヌと、暗めの金髪に地味めな顔付きをしているアンリエットとでは比較になるはずもなく、見間違いが起きるはずがないのだ。それにも関わらず何故かアンリエットは攫われたし、赤髪の青年は伯爵令嬢と呼んだ。
「夜会に参加するような貴族でリリーの顔を知らない、ということ自体信じ難いわよね。でもわたしそっくりの令嬢なんて見たことがないし、他に親しい伯爵令嬢なんていないのよね」
「そうなると他国の方ですとか……」
「でも他国の人間が窓の外を見て教会の方角を言い当てることなんてできるのかしら?」
「「うーん……」」
主従の話し合いに結論が出ることはなく、結局アンリエットの「わたしはリリーを信じるわ」という鶴の一声によりリリエンヌと会うことが決まった。
「アンリエット・メラール男爵令嬢。この度は我が家の者が大変なご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません」
シスターに案内されてやってきたリリアンヌは無事なアンリエットの姿を目にするな否や、そう言って頭を下げた。身分が上の者が下の者に頭を下げることなど普通はあり得ず、驚きのあまりアンリエットは一瞬固まってしまった。
「り、リリー! お願い、顔を上げて! わたしは無事だったのだし、そんなことをしなくても大丈夫よ。いつも通りヘティって呼んでちょうだい」
「ありがとうヘティ。でもこれはわたくしリリアンヌ個人としてのケジメよ。わたくしは必ず伯爵位を継いでみせる。けれども、そのために友人を危険な目に遭わせるつもりは決してなかったの」
アンリエットから声をかけられたリリアンヌは頭を下げた姿勢のままそう答えた。
「そこまで言うのなら……わかりました。リリアンヌ・ド・ルシーニュ伯爵令嬢、確かに貴女からの謝罪を受け取りました。それでは、わたしからは感謝を。当家の使用人の言葉を聞き届けて捜索に力を貸して下さったとお聞きしました。もしお力をお貸しいただけなければきっと大きな騒ぎとなっていたでしょう。我が家とわたしの名誉に気を気を配っていただいたこと、厚く御礼申し上げます」
そう言ってアンリエットも頭を下げた。
「「ふふっ……ふふふふふっ」」
一瞬訪れた静寂の後、やがてどちらからともなく二人は笑い出した。
「ねえリリー、わたしたちに真面目なのは似合わないわね」
「ふふふ、そうかもしれないわね」
そうして改めて顔を上げ、お互いに抱きしめ合って無事を喜び合った。
「ヘティ、本当に無事で良かったわ。連絡を受けて本当に心配したのよ」
「ありがとうリリー。こうして再会できて本当に嬉しい」
「それで、昨夜は一体何があったの? わたくしにも教えてもらえないかしら?」
そう尋ねられたアンリエットはルシーニュ家の護衛に呼び出されたところから話し始めた。流石に三度目の説明ともなると良くも悪くも手慣れたものでそれほど時間はかからなかった。
「そう、そんなことがあったの……。赤い髪の青年ね」
「ええ、その人のおかげで助かったの」
話を聞いたリリアンヌは該当しそうな貴族子弟の候補を思い浮かべようとしたが、社交シーズンに王都に滞在する貴族子弟の多さを思い出し、諦めざるを得なかった。
「残念ながら赤髪は我が国だとありふれた髪色だから参考にならないわね。できたら後で似顔絵を送ってちょうだい。それよりも、問題は誘拐の実行犯が別にいるってことよ」
「青年は友人たちと言っていたのだけど……」
「ということは誘拐犯たちも貴族子弟かしら? そうなるとそちらの口からヘティが誘拐されたことが漏れる可能性も考えなくてはいけないわね」
「そ、そんな……」
大きな問題にならずに済んだと安心していたところに、止めようのない穴の存在を指摘されたアンリエットは愕然とした。そんな友人をなんとか安心させようとリリアンヌは言葉を続ける。
「大丈夫よ安心して。わたくしが責任をもって対策を考えるわ。例えば……そうね、昨日屋敷に戻らなかったのはルシーニュ家の屋敷に泊まったことにしましょう。あとは早めに領地に戻ってしまっても良いかもしれないわね。だって王都にいない人間は誘拐されようがないでしょう?」
その提案を聞いてアンリエットの脳裏に領地の屋敷の温かい光景が広がり、懐かしさで一杯になった。
「……確かに領地でゆっくり過ごしたいかも」
「ええ、是非そうしなさいな。調査の方はメラール男爵と相談してわたくしの方で進めておくわ。何かわかったら必ず連絡するから安心して」
「ありがとう。領地に戻る前に似顔絵を描けたら送るから。あとは何が手掛かりになるかな?」
「ふふ、心配しなくても手は色々とあるわ。宿を取ったということは宿の人間は顔を見ているはずだし、行方を晦ませた護衛についても紹介してくれた家に問い合わせすればそちらから何か見えてくるかも」
「なるほど、それはそうね」
そこまで話したところで、リリアンヌは一つ咳ばらいをして姿勢を改めた。
「それと、これはあくまでも一つ可能性の話として、赤髪の青年の気が変わって婚姻を訴えてくる可能性も考えられるわ。もし、そうなったら遠慮なく当家を頼ってちょうだい。必ず裁判の力になってみせるから」
「えっ、でも、わざわざ逃げるのを手伝ってくれた人がそんなことをするかな?」
それは赤髪の青年によって助けられたアンリエットにとっては思いもよらぬものだった。
「世の中に絶対なんて無いのよ。当人にそのつもりはなくても周囲がそれを許さない可能性だってあるのだから。女を誘拐して逃げられた、なんて話になったら面子丸潰れでしょ?」
「それは……うん、そうだね。リリー、色々言ってくれてありがとう」
「このくらい大切な友人のためですもの、当然よ。さ、それじゃ男爵家に戻りましょうか。送っていくわ。今度のお誘いはわたくし直々ですもの、誘拐の心配はしなくて良いわ」
そう言ってリリアンヌはお茶目にウィンクしながら笑ってみせた。
こうしてアンリエットは男爵家のタウンハウスに戻り、両親とも再会を喜び合った。
一休みしてからは領地に戻るべく旅の準備を進めていたアンリエットだったが、その出発は延期されることになる。リリアンヌから「赤髪の青年と目される人物がルシーニュ家を訪れることになった」という連絡が届いたのだ。
今更ながらアンリエットの愛称が「ヘティ」になるのは本作ではなるべくフランス語読みを採用しており、アンリエットも綴りとしては「Henriette」であり、発音時には抜ける頭文字のHを愛称の時は使う、みたいな話のようです。英語だとヘンリエッタとなって、こっちだと「ヘティ」になるのは感覚的にもわかりやすいでしょうか。




