第110話 絶嶺の蹂躙
後方待機所。そこは、王都の平和を死守するために『黒死の絶嶺』へと挑んだ者たちの、血と絶望が凝縮された吹き溜まりだった。
急造の天幕の下、野戦病院と化した広場には、手足を失い、あるいは魔物の猛毒に身を焼かれた騎士たちが溢れかえっている。衛生魔導師たちの必死の詠唱も、絶え間なく運び込まれる負傷者の数には追いつかず、重苦しい死の予感が、淀んだ霧のように立ち込めていた。鉄錆の臭いと、焼けた肉の匂い、さらに死を待つ者の絶望的な沈黙が、戦場という場所の残酷さを物語っている。
「おい、道を開けろ!先陣のゼノン様が運び込まれたぞ!衛生兵、急げ!早くしろ!」
その怒号が、戦場の喧騒を切り裂いた。俺と父様の目の前を、血で真っ赤に染まった担架が通り過ぎる。そこに横たわっていたのは、王国最強の一角と謳われ、弟である俺をいつも厳しくも優しく見守ってくれた、誇り高き兄であるゼノン・ヴァルゼイドだった。
漆黒の重鎧は、何らかの巨大な力によって紙屑のようにひしゃげ、胸元から脇腹にかけて、凶悪な魔物の爪によるものと思われる深い裂傷が刻まれている。その傷口からは、不気味な紫色の瘴気が立ち上り、兄様の強靭な生命力をじりじりと確実に削り取っていた。周囲の衛生兵たちはその瘴気に触れることすらできず、ただ絶望的な表情で立ち尽くしている。
「兄様……っ!」
俺は衛生兵の制止も聞かず、担架へと駆け寄った。兄様は薄く目を開け、焦点の定まらない瞳で俺を見上げると、震える唇を微かに動かした。
「ユウ、か……?逃げろ。あの嶺には……人の手に負える……ものなど……」
兄様の血に汚れた手が、俺の頬を汚すまいとするように空中で止まり、力なく落ちる。その瞬間、俺の中で怒りが膨れ上がった。
俺のすべきことは、パサージュの鍵を使い、兄様を、そしてここにいる全員を救うことだ。救えないはずがない。
「兄様、喋らないで。もう、大丈夫だから安心して。僕が、いま治す」
俺は左肩に刻まれた『パサージュの鍵』に意識を集中させる。次の瞬間、黄金の紋章が脈動を開始する。俺の左肩から噴き出した黄金色の光は、待機所の薄暗い天幕を真昼の太陽のように照らし出し、そのあまりの光量に負傷兵たちの呻きが止まり、医師たちの動きが凍りついたように静止する。
「『零位の門』および『逆行する砂時計』を同時展開」
俺は浮かんでいる鍵穴へとパサージュの鍵を差し込む。現実という名の強固な歯車を力任せに抉じ開ける。
「事象の回帰を広域定義。……戻れ」
ギ、ギギッ、と。
空間が物理的な悲鳴を上げる。
最後の一回転。
カチリと運命の鍵が閉まる音が響き渡る。
黄金の粒子は猛烈な吹雪になり周囲を舞い始め、死の臭いさえも神聖な香気へと塗り替えていく。それは救いというよりは、世界の法則そのものが無理やり書き換わっていくことへの拒絶反応にも見えた。
俺を中心に爆発的な黄金の波動が同心円状に広がり、待機所に横たわる数千の負傷兵たちを飲み込んでいく。それは魔法による治癒などではない。彼らの肉体に刻まれた”負傷”という確定した過去の事実を、発生前の白紙の状態へと世界の道理を捻じ曲げて強制的に上書きする理の暴力なのだ。
兄様の肉体から立ち上っていた瘴気が霧散し、ズタズタに引き裂かれていた筋肉と皮膚が、巻き戻される映像のように瞬時に塞がっていく。それと同時に、周囲で手足を失い絶望していた騎士たちの四肢が、まるで時間が逆流したかのように芽吹いて再生し、止まらなかった出血が光の粒子となって消え、青白かった顔に生気が戻っていった。
数秒前まで阿鼻叫喚の地獄だった広場は、傷一つない数千の騎士たちが、呆然と自らの健康な肉体を確かめる奇跡の聖域へと変貌していた。
「なんだ……傷が消えたのか……?痛みすら、最初からなかったかのように……」
兄様の、さらに周囲の負傷兵たちの驚愕の声を背に俺は立ち上がった。視線の先には、絶嶺の麓から防衛線を突破し、この待機所にまで迫ろうとしている、大地を埋め尽くす数万の魔物の黒い波が見える。地響きと共に彼らの放つ殺意が物理的な圧力となって押し寄せてくる。
「父様。兄様をお願いします。あいつらは、僕が倒す。この戦場に死という結末は必要ない」
「ユウ、待て!一人で行くなど正気か!いくらその力があろうとも、相手は数万だぞ!」
父様の悲痛な絶叫を背に受けながら、俺は迷うことなく戦場の最前線、絶望が黒い口を開けて待つ泥沼の中へと歩み出した。
俺の行く手を阻もうと地を連なる双頭の巨狼や、空を覆う翼竜が飢えた咆哮を上げて殺到する。だが、彼らが俺の体に接触する数メートル手前で、その運動エネルギーは完全に霧散し、まるで透明な壁に衝突したかのように力なく地面へと転がっていく。
「『概念の拒絶』。定義上、俺への攻撃は不成立だ」
俺が歩く周囲数メートルにおいては、魔物の攻撃という概念そのものが成立しない。さらには彼らの生存本能すら、この世界の道理として排斥される。俺はただ、静かに一歩ずつ歩を進めるだけで、多くの魔物たちが糸の切れた人形のように、あるいは崩れるドミノのように、俺の前で次々と力尽き、地に伏していく圧倒的な不条理を体現していた。
戦場の中心部では、ウィンザー王太子が率いる騎士団が、包囲され全滅の危機に瀕していた。盾は砕かれ、剣は折れ、誰もが己の死を悟ったその時、戦場を真っ二つに割るような黄金の道が現れた。そこに現れたのは、光り輝く腕を持ち、一切の動揺を見せずに歩く俺が見えたようだった。
「これより、この空間における生命の維持の概念を無効化する。あらゆる出口を閉じ、あらゆる存在を封じよ」
俺は数万の魔物の咆哮を真正面から浴びながら、天に向かって光の腕を掲げ、虚空に巨大な扉を幻視させた。その鍵がパサージュの意志と同期し、戦場全体の因果律を完全に掌握する。空間が軋み、次元の壁が鈴のような音を立てて共鳴する。俺は、因果の扉を閉ざすべく、その鍵を一気に回した。
「失せろ」
――カチリ。
パサージュの鍵が、冷徹に運命を定める音を立てて一回転した。次の瞬間、俺を起点とした全方位に、物理法則を無視した重圧の波動がほとばしる。
黒死の絶嶺から溢れ出していた数万の魔物たちが、断末魔の声すら上げられず、一斉に地面へと叩きつけられた。バタバタと凄まじい肉の塊が地に沈む音が戦場に響き渡り、魔物たちは、一瞬にしてその魂を世界から切り離され、死に絶えた。
空を覆っていた禍々しい暗雲が、鍵の放つ衝撃波によって一瞬で吹き飛ばされ、雲の隙間から一筋の神々しい陽光が、戦場の中心に立つ俺へと降り注いだ。返り血一つ浴びていない、公爵家の軍装に身を包んだ俺の背中を、その光が黄金の輪郭で縁取る。
剣を構えたまま石像のように固まっていたウィンザー王太子が、ガタガタと震えながらその場に膝を突く。それに続くように、生き残った数千の騎士たちが、一糸乱れぬ動きで大地に平伏していった。それは権力に対する儀礼などではない。人知を超えた、まさに神の如き威光を目の当たりにした者たちが、魂の底から捧げる絶対的な敬畏み見えた。
俺はゆっくりと振り返り、遠くで呆然と立ち尽くす父様と、傷の癒えた体でこちらを見つめる兄様、さらに恐怖と驚愕に顔を強張らせる軍の上層部を一瞥した。
「……あーあ。これは後で、母様にすごく怒られるだろうな」
俺は、困惑するように頬を掻いた。
これにより、ヴァルゼイド公爵家の不自由なはずの末子が、一国を救い、世界の理を指先一つで書き換える主であることが、数千人の証人の瞳を通じて、歴史の深淵に刻まれることとなってしまったのだった。
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