依頼①
もとをたどれば全ては、一つの「依頼」から始まったのである。
その時、私はオオタニとともに「人生」について考えていた。
この一見する限り平凡で、何事もなければそのまま普通に流してしまいそうな一文は、正確な理解のためには存外いくつかの点で詳細な説明を要するものである。まず一点、「オオタニ」とは誰か、ということが問題となる。「大谷ショウ●イ」を彷彿させる、というよりもむしろ全く同一であると言ってもいいその名字の持ち主は、しかし「ショウ●イ」とは異なり、野球選手ではない。私が代表を務める探偵事務所の助手である。助手と言っても推理や問題の実際的な解決は私が全て請け負っているので、オオタニの仕事は主に片付け、領収証や資料の整理など、事務的なものが大半だ。
もっとも、オオタニは当初「助手」になりたくてこの探偵事務所を訪れたわけではない。奴はもともとは「依頼人」として私の前に現れた。と言っても、自ら進んで「依頼人」となったわけではなく、それどころか、「依頼人」であると自覚したことさえなかったかもしれない。どういうことかと言えば、奴の方から何かを「依頼」してきたのではなく、奴が道で何者かに絡まれているのを、パトロール最中の私が助けたのである。
桜の舞う、卒業シーズンだった。
そんな所謂「感動的」な時期に、羽交い絞めにされ、大振りの包丁のようなものを首に突き付けられていたオオタニは、寸でのところで人生を卒業してしまいかねない状態にあったということになる。後から聞いた話によれば、たまたまそこらへんを歩いていたら刃物を振り回している見ず知らずの男に偶然遭遇し、その脇を足早に通り過ぎようとしたところ、いきなりつかみかかられ、刃物を首に突き付けられたのだそうだ。まず「たまたまそこらへんを歩いていた」というのが、私からしてみれば怪しいことこの上ない行動ではあるが、それでも、刃物を振り回すよりはさすがに幾分マシと言えるだろう。
その様子を目撃した時、初め私は二人がじゃれ合っているのだと考えた。男同士が公共の場でくんずほぐれつを繰り返す様というのは、それほど珍しい光景ではない。NHKの相撲中継を試しに見てみたまえ。だが、刃物を持った方の男(坊主頭+髭面)が「お前がやったんだろ? お前がやったんだろ?」などと同じことを何度も繰り返し大声で叫び散らしているのを聞いた時、「名探偵」としての本能が事態の真相を瞬時に喝破し、私に警告してきたのだった。「今目の前で起こっていることは愉快な睦み合いなどではなく、凄惨な事件の前触れなのだ」と……。
そしてそうとあっては、いつまでも手を拱いて「観客」に徹しているというわけにもいくまい。
私はさっそく、「人質」を救い出すための行動に着手した。
いったんこうと決めたら、身の危険を顧みず、臆さず目的に向かって一直線に進むことのできる度胸のよさこそ、私を「名探偵」たらしめる重要な資質の一つである。たとえそこらへんの道端にこびりついた犬の糞同然の存在価値しか持たないクソであったとしても、そいつがこの街の治安をほんのわずかでも乱しておりくさりやがる限り、私はそのクソを見過ごしてやるわけにはいかない。
だから私は逆上した男が勢い余って「人質」の首をかき切って頸動脈を傷つけてしまう可能性を全く勘案することなく、自分が今やるべきことを正確に見極めて忠実に取り組んだ。気配を消すこともせず、真正面から堂々と二人に近づくと、こう言ったのである。
「死ぬほどダセエから、もうそのへんでやめておけよ」
一瞬の後、刃物男は全身の力が抜けたかのように芝居じみた様子でその場にへたり込むと、包丁を地面に落とし、すすり泣くことを開始した。真っ黒な髭が口の周りを覆っていることをはじめとして、どう若く見積もっても50代を下りはせぬだろう男が、クソガキ御用達の「号泣」に精を出している様は、それなりに見どころのある光景と言えなくもない。もちろんここで言う「見どころのある」とは、「あまりに見苦しくて目も当てられない」と同義である。
「人質」の方はどうかと言えば、こちらもまた尻餅をつくようにして地面に倒れ込み、放心していた。
要するに、私はたった一言で関係者全ての精力を奪い尽くし、結果的に事件の芽を完全に摘み切ってしまったということになる。我ながらびっくりだが、「名探偵」の言葉というのは、仮に短いものであったとしても、それほどまでに絶対的に卓越した響きを持つものなのであろう。すすり泣きと、車の通過する音、カラスの鳴き声、そしてどこか近くの家で赤ん坊が泣き喚いている声とが絡まり合い、絶妙なシンフォニーを奏でているのを右耳から左耳へ流して聞きながら、私は軽い高揚感を弄ぶようにして、しばらくその場で仁王立ちを続けていた。