接触Ⅰ⑮
足を踏み入れた先はよくわからない部屋だった。と言うか照明が消されていたために初めはほとんど何も見て取ることができず、剥き出しの足裏の感覚を通じて「床に絨毯が敷かれているらしい」とだけかろうじてわかった。相変わらずお経の詠唱は続いていたものの、少なくとも当該の部屋に人気はないようだったのでしばらく息を潜め、目が慣れるのを待っていた。ちなみにいつでも逃げ出せるように戸は開けたままにしておき、反面、万が一の際に逃走経路を悟られ、塞がれてしまわないようにするため、後ろ手でカーテンだけは閉めておいた。
やがて薄暗い部屋の中で、左右の壁際に立ち並ぶ大きなタンスがまず存在感を露わにし始めた。私は他に何か手がかりがあるわけでもなかったため、ひとまずそれに近づき、念入りに調べることを開始した。もちろん誰かがタンスの中に「監禁」されていないかどうか確かめるためだ。
結論から言えば、その「探索行」は空振りに終わった。……タンスをフェイクに使うとは、さすがに「名探偵」の宿敵を自称するだけのことはあると考えながら、何の気なしにそのまま部屋の物色を続けた私は、ほどなくして予想外にひどく激しく困惑させられることとなる。
「こいつはいったい……、どういうことだ……?」
「侵入者」の鉄則として、「沈黙を守る」ことは最低限必要な事柄であったはずなのに、気づくと私は既に声を漏らしてしまっていた。しかしお言葉を返すようで恐縮だが、それはある意味、当然だったのかもしれない。
……小学校入学と同時に買い与えられるような木の机(テレビCMでよく宣伝されているような代物)、ゲーム機、積み木やミニチュアの車といった玩具、野球のグラブ、小学校の卒業アルバム……。
まだ完全に暗順応に成功したとは言いがたかったが、それにしても、くだんの一室の随所に無造作に配されていた種々の事物は、そこをHの根城として認定するには、あまりに幼稚で牧歌的でありすぎた。
タンスの脇に並んで置かれた戸棚の扉を開き、中にやはり幼稚園児か小学生かがお世話になるような薄い絵本の類が大量に収められているのを目で確認し、どうやら見込み違いだったようだと考えた私が、別の住居への移動を試みるべく、ベランダの方へ足を向けたのとほぼ同じタイミングだった。
「カンタ、帰ってるの? カンタ? カンタアァッ!!」
私は珍しくビクつくと同時に、もう一度小刀を強く握り締めざるを得なくなった。要するに警戒心を最大限に高めたわけだが、そのような反応を見せたことにはいくつか理由がある。突然発生した甲高い女性の声が明らかに常軌を逸しているようであったことはむしろ付随的な要因に過ぎない。奇声が発生するくらいでいちいち驚いていては「名探偵」は勤まらない。だからそうではなくて、最も強く働きかけてきたのは、当の声の主が何故だか私の「本当の名前」を呼んでいたことである。
……やはり余計な危険を避けるため、これまで下の名は特にひた隠しにしてきたはずなのに、なぜそれを、よりによってどこの馬の骨とも知れない頭のイカれた女が口にできたのか? そして「帰ってるの?」だと? いったいどういうことだ……? 何が起ころうとしているんだ?




