接触Ⅰ⑨
いずれにせよそういう事情で、「壁上り」の時同様、「管上り」にもまたそれなりの困難が付きまとったと言ってよい。ただ「壁」の場合とは異なり、徐々にではあるが着実に身体は上昇を続けており、それこそが何より重要なことだった。なぜならその事実は、時間はかかるかもしれないが、しかし時間をかけさえすれば、いつか必ず目的地に辿り着けるということを暗に保証してくれていたからだ。
剥きだしの状態で傷ついた掌や足の裏の皮膚は、絶妙に心地のよくない冷たさを帯びた「管」に吸い付くようで、私の身体を中空で支えるのに役立った。そして体中の毛穴という毛穴から噴き出した汗により、全身がプールに落ちた時のようにびしょ濡れになった頃、私は見事、屋上に辿り着くことができたのであった。
だがもちろん、私が真に目指していたのは「屋上」ではなく、Hの「アジト」である。夏の大三角形を眺めて悦に浸りたいわけでもないのだから当然のことだ。それゆえ「登頂」の成功のみに満足し、「終わりよければ全て良し」だなどとほざいて気を緩めてしまうわけにはいかない。
「管」を上りきった私は、軽く一息だけつくと、すぐにさらなる移動を開始した。
屋上のヘリを掴み、懸垂の要領で腕を曲げながら、じりっ、じりっと右に少しずつ移動していく。ここでもやはり、毎日欠かさず公園の雲梯にぶら下がり、その状態のまま意識がホワイトアウトするまで延々握り棒の往復を繰り返したことが功を奏した。汗が噴き出して目に入り、また上腕の野郎が所詮「ウデ」の分際で大げさに騒ぎ立て、乳酸の大量発生を訴え始めたがもちろん無視した。
体感にしてだいたい3メートルほど進んだところで手を離した。
落下する。
股間のあたりが一瞬ヒヤッとする。
と思ったのも束の間、やはり体感にして0・02秒後、固いコンクリートの床に既に私は屹立していた。毎日最低1000回のシットアップが功を奏したようで、着地に際してバランスを崩すことはなかったが、衝撃が足の裏側から骨を伝って腰のあたりまで響いたのには閉口した。寸でのところでその場に倒れ込み、悶絶しながら転げまわってしまうところだった。
とにかくいずれにせよ、こうして私は目的の部屋のベランダに辿り着くことができた。
もっとも便宜上「目的の部屋」などと名状したが、そこが本当にHのアジトなのかどうか、正直言って私にはまだ判断がついていなかった。何しろマンションというのは「一軒家」ではなく「集合住宅」なのであり、だからこそ私が「辿り着」いた所の他にも「部屋」は無数に存在する。単にSに導かれる形でこの建物までやってきただけの私が、初見でピンポイントで根城を突き止められるはずもない。もちろんここでの「~られるはずもない」(=不可能)は私の能力ではなく、問題自体に備わった構造自体に全面的に由来しているのだが、そんなことは何の慰めにもならない。
だが私には覚悟があった。……Hがこの建物に居座り、私を出し抜いて勢力を拡大しようとしているのは確実なのだから、街の治安を守るためには、いずれにせよ、アジトを見つけ出すしかない、そしてそのためには労を厭って効率の良さのみを追求するのではなく、全ての部屋にしらみつぶしに当たっていくというのが唯一の正解となる、面倒なのは百も承知だ、だが「やりたい」とか「やりたくない」とかじゃない、もはや「やるしかない」のだ……。そしてこういう「覚悟」が後ろ盾にあるからこそ、表面的には適当に選んだに過ぎないように見えるその「最初の部屋」が「目的の部屋」へと反転することになる。……どうだろうか? これでお分かりいただけただろうか?




