炎上①
あいにく逆方面への最終電車はもう出てしまっており、結果的に私は「事務所」まで歩いて戻ることを余儀なくされた。2駅分強の距離があり、また平坦ではなくアップダウンを繰り返すような道だったため、徒歩で踏破するのはなかなか大変とも言えたが、普段から鍛錬を積んでいる私にとってはむしろちょうどよい「ウォーキング」となった。そもそもその辺りはまだ日課のパトロール範囲の内側でもある。だから土地勘もあり、迷うこともなかった。途中のコンビニでビールを購入し、飲み歩いていると、電車内での決定的な「シンギュラリティ」が幻だったような気がしてきて、酔いが回るとともに徐々に精神に平穏が取り戻されていくのがわかった。
ちなみにホームを歩きながら時刻を確認したところ、いつの間にか忌まわしい「9月24日」が終わっていることがわかった。改めて振り返ってみると、ただの1日とは思えないほど、とてつもなく長く密度の濃い時間だった気がした。
……いったいいつから続いてた? 最初は何から始まった……?
いくら自問を繰り返してみても、答えは全く浮かび上がってこない。しかし確実なのはその日が終わったということで、だとするとこれから先、運が向いてくるだろうことはまず間違いなく、間違いないことだと思われた。というか、そうでなければ困る。そう、そうでなければ困るのだ。
だからこそ、その姿が目に入った時、私はそれを「ただの気のせいである」と考え、半ば無理やり意識の外へと締め出そうとした。なぜなら「その姿」はそれ自体が何らかの「事案の発生」を告知するものであり得、そのために「9月24日が終わった。」という単純な命題の示す「幸先のよさ」に全くそぐわないからだ。
当たり前だが、駅から「事務所」へはただひたすら真っすぐ前進すればよいというわけではなく、むしろ私は全体を通じて小刻みに弧を描きながら、蛇行するようにして目的の場所を目指していった。そしてその歩行はしばらくの間、確かに安寧の沼に沈み込んだまま継続されたのだと言ってよい。動いているうちに全身にうっすら汗が滲んではきたものの、暑すぎも寒すぎもせず、全体的には「深夜徘徊」にはまさしくもってこいのコンディションだった。
……どうやらさっそく9月24日が終わったことの効果が表れているようだな、大変好ましいことではあるが、この調子だと、来月の24日が来るのが今から恐ろしくてならない……。
私はそんなことを考えながらも、リラックスして足を動かし、ほとんど「駆ける」のと同じぐらいになるまで速度を上げていった。その結果、「事務所」の付近までも実にスムーズに辿り着くことができたわけだが、真の問題はその後、最後の局面からこそ始まった。
とは言え初めは気づかなかった。というよりも、表面上は全く別の事物が、先に私の意識を捉えていた。「アジト」のエントランス前に停められた、一台の古びた軽トラックである。
イレギュラーな形での帰途であったがゆえ、普段とは異なり「上る」のではなく、「下る」形で、私は「事務所」へ続く坂道に差し掛かることとなった。そのことは同時に、「事務所」に辿り着くより先に、「アジト」の前を通過しなければならないということを意味したが、もちろんだからと言って、例えばわざわざ迂回して反対側の歩道に移るだなどという馬鹿な真似に手を染めることはすまい。そもそもHの方が私を恐れることこそあれど、この私がHを敬遠するなどと考えるのは、正直お門違いもいいところだ。「名探偵」の称号が剥奪されてしまったかもしれない状況下にあっても、これまでの華々しい活躍によって構築された関係性(私>>>>>>……>>>>>>H)がすぐさま瓦解するなどあり得ない。
そんな風に考え、「アジト」が近づくにつれてむしろ意識的に歩く速度を緩めることまでした私に対抗すべく、あたかもその進行を妨げるような位置にトラックは停車し、沈黙していた。かろうじて月光と街灯ぐらいしか明かりのない深夜1時目前の時間帯にあって、その車両はまるで自ら発光しているかのように、暗闇の中にくっきりと浮かび上がっていた。うつむき気味にわき目も振らず歩き続けてきた身からすれば、今まさにそこに日時指定で配送されてきたかのように、その出現は唐突だった。
だからと言うわけではないが、トラックを目撃した瞬間、私は何となく嫌な予感を抱くこととなった。いかなる形であれ、「障害」として自らの前に立ち塞がって来るものは、基本的にHの息がかかっている可能性が非常に高い。恐らく経験則から反射的にそのように推し量ってしまったことに基づくアプリオリな認識だったが、しかし私が実際に足を止め、近くの新聞販売店の軒下に身を潜めるに至ったのは、単に「予感」などという不確かなものに駆られたがためではない。もともと完全に沈黙し静止していたはずの車両が、今度はあたかも私の通過を待っていたかのようなタイミングでゆっくりと動き始めたからである。
運転手が外から乗り込んだようには見えなかった。また、元々乗っていた運転手がエンジンの作動やハンドル操作を行ったようにも、見えなかった。逆に私の感覚によって捉えられたものを明け透けに表現してしまえば、車が自動的に動き始めたように見えた、ということになる。
もちろんこれについてはまだ、「見間違い」という風に片づけることが可能である。エッシャーのだまし絵を参照するまでもなく、人間が見ていると思っているモノが、本当に目の前にあるモノと合致するとは限らない。
だがトラックが去った後、入れ替わりのようにして現れた「光景」について、私は決してそれを「錯視」であるだなどと否定することができない。




