「車内」にて⑤
そのように考え、あまりのショックでいつまでも立ち上がることができず床の上に仰向けになり、天井を見上げていた私はやがて、至近距離から携帯電話のバイブ音が聞こえてきていることに気がついた。ほぼ同時にズボンの左後ろのポケット(ナイフを入れていたのとは逆の側)が速いピッチで振動し始めたように感じる。活きのよい魚か何かが、床と腿の裏との間の窮屈な隙間から逃れたがっているかのようだ。全く身に覚えなどなかったが、思わず手を伸ばすと、そこにはやはり携帯電話が収納されていた。
携帯電話。
既に述べたように、私は職業柄、ずっと昔にその通信機器を確かに手放したはずだった。金づちや包丁を用いて可能な限り細分化した後、大根おろし器を用いてその断片をさらにすりつぶした。そうして粉状になったそれを、さらに間違っても足がつかないように慎重を期するべく、「事務所」外の側溝に七回にもに分けて慎重に流すことをしたのだ。
つまりにもかかわらず、今それが手元にあるということは、言うならばある種の「超常現象」のようにも思われなくもない。「名探偵」の称号を剥奪された瞬間、それが現れたというのも何やら意味ありげで示唆的だ。まさしく「着信アリ」というわけだが、実際にはそうではない。原因は恐らくより即物的である。そう、すなわちHだ。
あの忌まわしき犯罪者組織に属する何者か(間違いなくそれなりの手練れ)が、どこかのタイミングで私の気づかないうちにそれをこちらのポケットに忍び込ませた、しかもその「タイミング」は、たぶんかなり前の時点まで遡る……。そう考えれば、このところ私の居所がリアルタイムで奴らに筒抜けになっていた件についても説明がつく。もちろん(その難易度のあまりの高さから)「私の気づかないうちに」という課題をいかにクリアしたのかについては大いに熟考の余地があるが、そこらへんはやはり「手練れ」が思う存分その「手腕」を発揮したということなのだろう。敵ながらあっぱれだ……。
私は寝そべったまま電話をポケットから抜き取り、折りたたみを開いた。画面を確認することはせず、ボタンを操作して受話口を耳に当てる。
いきなり奇声が挿入された。
「あ、カンタやっと出た、カンタ、カンタァ、カンタァ、あんたカンタァよね、カンタァ!」
「……」何回繰り返せば気が済むんだ? そんなに「カンタ」が好きなら、『となりのト●ロ』でも見とけ。
私は驚くでもなくただひたすら呆れ返り、そう口走りそうになった。だが先に述べた事情で、ここでの「携帯電話」に関しては全てが不可解であり、にもかかわらずのうのうと電話をかけてきた相手は、何らかの形で事情に通じているのではないかと思い直し、結局しばらく黙ってそのまま様子を窺うことを続けたのだった。
「カンタァ、カンタ、カンタァ……、ねえ、あんたいい加減にしなさいよ! 勝手に出てって、自分が正しいと思ってるの? というか今どこにいるの? どこで誰と何してるの? 言いなさい! さあ、言いなさい! 言えないなら警察行くから、失踪届出すから、それでもいいなら、いつまでもだんまり決め込んでなさい、でももう一回だけチャンスをあげる、本当に、自分が正しいのか、よく考えてみなさいよ!」
とは言えさすがにそのあたりが限界だった。
……たわけている、あまりにたわけていすぎる……。
努めて冷静に携帯電話を耳から離し、折りたたんで床に置くと、間髪を入れず最大限の力をこめてエルボードロップをかました。100キロ超の身体の重みが肘の先の一点に集中され、携帯電話のボディに襲い掛かる。しばらく繰り返す。確実に何かが潰れたかのような音が聞こえてきたところで一度床を殴りつけ、身を起こした。そんな私に、すかさずDが声をかけて来る。
「おい、携帯やめろや」
馬鹿の一つ覚えのようなその文句に、死ぬほどムカついた。
「うるせえなっ! 俺だってやめてえんだよ、ケータイなんて使いたくねえんだよ、使いたいわけねえだろクソッ、……それとも代わるか? 代わってくれるのか? だったら許す、人生を俺と取り換えてくれるなら、貴様が他にどれだけメチャクチャな狼藉を働いてくれようが、尻ぬぐいはこの俺がしてやる、なあ、どうなんだ?」
「チマッ、チマチマチマチマチマチマチマチマ……チマッ!」
都合が悪くなったためか、Dが再びわけのわからない呪文みたいなのを呟き始めたところで立ち上がると、次に止まった駅で足早に降車した。向かい合わせに並んだホームの屋根の合間から、澄んだ空とほとんど完全な円形を備えた月とが、泣きたくなるぐらいに綺麗にくっきりと見えている……。




