「車内」にて③
一瞬だけDやOのことを忘れ、代わりに何となく聞き覚えのあるその「ユウコ」という音、及び脳裏に生じたくだんの「映像」について考えを巡らせた私は、しかしすぐに、そんな些末な事柄にかかずらっている場合ではないと結論付けた。自身の頭や体が、私のそれなりに巧妙かつ強力なはずの統御の圧を押しのけて好き勝手イメージや言葉を放ち出したことは確かに興味深くはあるが、今目の前にある「現実」とと比較されれば、全てが茶番であり、ママゴトへと堕する。一応断りを入れておけば、その「現実」とは、すなわち存在感不快感、さらに具体的な容姿や言動といったあらゆる点でこの世の者ならざる感を醸し出す「怪物」が、可憐な女性の心身に対して多大なるストレスを与えているとの図式を指しており、またその「図式」が、物心ついてすぐの頃から「我が家」において毎日のように展開されていた光景と正確に重なり合うものであったのだとすれば、なおさら問題解決に向けて動き出さないわけにはいくまい。
つまり「名探偵」として即座に取り組むべきなのは、いまだ終点の見当たらない自己分析の渦に果敢に飛び込んでいくことではなく、「現実」に苦しんでいる者を救うこと、それ以外にない。
私は一呼吸してから息をつめ、ポケットの中の『黒ひげ危機一髪』のナイフを握りしめると、満を持して網棚から飛び降りた。
「もうそのくらいにしておけよ」
車内にその声が響いたのが次の瞬間だった。ここで言う「次の瞬間」とは、私が網棚の端からついに「満を持して」宙に身を躍らせたタイミングと完全に一致する。ふんぞり返って飽きもせずOをいびり続けているDの腹に、着地と同時にナイフを突き立て、二度と立ち上がれないようにしてやろうとしていた私は、虚を突かれてバランスを崩し、事件の「現場」から2メートルぐらい離れた辺りに右肩から落下した。展開があまりに予想外に過ぎたために全く受け身を取ることができず、床と衝突した瞬間に肉が固いものに打ち付けられる時の非常に大きな音が生じ、痛みのあまり、無意味と分かっていながら、紋切型の苦悶の声を漏らさずにいられなかった。
「ぐおおおおおおおっ!」
文字にするとかなり面白く感じられるが、当該時点における私はそのこと(つまりそのセリフの面白さ)を十分すぎるほど自覚しており、だからそんな声は絶対に出さない方が正解なのだということもまた重々承知していた。逆に言えば、にも拘らずその声を絞り出さずにはいられなかった(しかも雑菌まみれの床に自ら進んで身体をこすりつけるようにしながら)ところに、私の陥った窮地の深刻さがありありと現れているとも言える。今となっては懐かしさの感さえ覚えなくもないが、かつてHの根城でガラス戸にダイブしてそれを粉々にした時と同じぐらいの痛みだったと表現すれば伝わるだろうか……?
しかしいずれにせよ、そんな私に駆け寄り、心配の言葉をかけてくれる者は一人として存在しなかった。
それどころかごく控えめに言って、その時既に私は完全にDとOをめぐる事件の蚊帳の外に追いやられていた。代わりに場の主導権を握り始めていたのは、私の許可を得ることもせず、先の制止の言葉をドヤ顔で吐き散らかした一人の男だ。
床の上で呻きながら、細く開いた瞼の隙間からその姿を視界に収めた時、まず初めに受けた印象は背が高くてスタイルがよく、見目麗しい人物だ、ということだった。下から見上げるという位置関係が影響していたのかもしれないが、仕事用と思われる濃紺色のスラックスに包まれた脚は妙に長く見え、また上半身を覆う白い半そでのワイシャツは、こまめにアイロンをかけていることをうかがわせるようにきちんと折り目が付いており見るからに清潔だった。顔も同様に整っており、特にキリっとした目と欧米の映画俳優を彷彿させる高い鼻は、肖像画か何かに描かれているものと遜色がなかった。
要するにこの期に及んで「真打ち」が現れたというわけだが、所謂「クールビズ」などと称される出で立ちから察せられる通り、自身の外見の良さを鼻にかけ、人生を舐めくさっていることの明らかな男は、さらにDに対して短くこう言ってのけてくれたのだ。
「消えろよ、目障りなんだ、いいか、お前はただ生きてるだけで迷惑なんだ、だから早く消えろ」
腹式呼吸であることを類推させるような、非常に明朗で太く、しかし不快ではない低い声音に、恐らく私を除いて車内にいた乗客全ての耳は望む望まずに拘らず引き寄せられていたはずだった。つまり私の苦悶の叫びよりも、男のその格好のよろしいセリフの方が、乗客にとってはより魅力的に感じられたというわけだ。もっとも私から言わせてもらえば、男の「外見」と比べてその「セリフ」はあまりに芝居がかっていすぎており、そもそも内省を欠いているという点で非常に幼稚なものであった。だが、ギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』を参照するまでもなく、大衆は往々にして陳腐で幼稚なわかりやすい言葉に魅かれ、扇動される傾向にある。そして愚かなことこの上ないが、事実としてこの時もまた、同様だった。
そして当のセリフを向けられた相手であるはずのDもまた、陳腐な比喩ではあるが、時を止められでもしたかのように、巨大なバーガーを頬張ったままの状態で一瞬だけ動きを硬直させた。つまり「ヒーロー」気取りでかつ「イケメン」ではあるものの、恐らく所詮「社畜」に過ぎず、また「幼児性」も抜けきっていないというなかなか多機能的な存在にまんまとしてやられたというわけだが、それでもM.M.そっくりなデブをその程度のザコであると短絡的に侮ってしまってはいけない。
実際Dはすぐさま逆上して本家の「第6●代横綱」顔負けの素早い動作でバンズを放り投げながら立ち上がると、地団駄を踏み、やはり内容を理解するどころか言葉を聞き取ることさえ不可能なただの喚き声を好き放題吐き散らかすことを開始した。早い話が人間であることをやめて騒音発生機として新たに誕生を果たしたのだと言い換えることも可能だろうが、しかしその「変化」など、結局のところほとんどあってないようなものに過ぎない。ただ程度が少し増しただけで、Dのワイルドな振る舞い自体が改められることはないからだ。
そしてまたどうやら「真打ち」の方も、残念ながら既に完全にDへの興味を失ってしまっていたようだった。何しろそれからすぐに奴は私から許可を得ることもせずにOの手を掴んで引くと、「こっちだ」だとか何とか言って、颯爽と彼女を別の車両へと連れて行ってしまったのだから。……たわけている、あまりにたわけていすぎる……。




