「車内」にて②
まずDが傲岸にも深々と腰を下ろしていたのは「優先席」であった。(私の耳が正常ならば)他人に対して「携帯電話を使うな」などと命じておきながら、自分は1人で3人分の席を占領し、そのうえさらに大手ハンバーガーチェーンの、「食べ物」として間違っているように思われるほど巨大な代物に、顎が外れそうなほど大きく口を開いてかぶりついていたというのだから笑わせてくれる。もちろんここで言う「笑わせてくれる」とは、「笑う以外どうにもしようがない」という意味で用いられており、かつ全ての終了した現在から振り返ってみた場合の「感想」に過ぎず、当時の私には実際には笑う余裕など全くなかった。むしろ視界内にその姿を認めた瞬間から、体臭に付け加わる形でファストフードの香ばしい臭いが車両中に充満し始めたように感じて私は吐き気をこらえきれなくなった。
しかしここで注目したいのは、私の身体が訴えたSOSの兆しではない。またDの常軌を逸した食べっぷりもまた、本質的にはどうだっていいことだ。より重要なのはセリフ内容から察するに、Dが恐らく一人で叫んでいた(奴ならやりかねないが)のではなく、たまたま乗り合わせた人物に言いがかりをつけていたということである。
いや、そうではない。現実に対して最大限の配慮をはかり、可能な限り最大限の正確性を期すならば、最も重要なのはその罵られていた側、つまり「被害者」の方だった。
その人物は見た目からすると新卒の社会人のように思われた(以下、Oと記載)。もちろんそれは私の主観的かつ暫定的な認定に過ぎず、もしかすると就活中の女子大生だったかしれないし、あるいは働き始めて既に数年が経過した「若手」だったのかもしれない。いずれにせよ、まだ「お局」の領域に達していないのは確かだった。だがそんなことはまあどうだっていいことだ。ぴったりとしたスーツに締め付けられ、シルエットが強調された全身は、見方によっては魅力的であると言えなくもなく、また場合によっては肉感的と言えなくもなかったが、それもまた、どうだっていいことだ。
私の意識を捉え、即座に集中させるに至ったのは、端的に言えば顔、及びその付近の造作である。
……短いがツヤのあるきれいな髪、大きくはないが黒目がちな瞳、高く筋がすうっと通っていて、それでいて自己主張が少なく顔全体と調和を成している鼻……。
それらの特徴には決して「明確に」というわけではないのだが、しかしだが「確実に」、私の記憶を刺激するところがあったようだった。その証拠にOの容貌が視線の先に捉えられた瞬間、頭の中に1つの映像が広がり始めた。……徐々に冬の終わりが近づきつつある日の昼下がり、木枯らしが激しく吹く、灰色の寒空の下、住宅街の一角で塀沿いをゆっくりと歩く少女の隣にいるのは、私ではなく、別の男の子……、だと? ……いや、そんな光景など知らない、知るはずがない……。
やけに必死で否定しようとする自分の中の自分をよそに、下腹部の辺りに何かがくすぶり、煙がゆっくり立ち上るかのような感覚が兆す。かと思うと動悸が高鳴り、すごい勢いで送り出されていく血液とともに妙な感じの火照りが全身へと広がっていく……。つまり頭よりも早く身体の方が、相手をどこかで見たことのある人物だと直感的に判断し、顕著な反応を見せたというわけだが、どこで見たのか、ひいてはそれが誰なのかはやはりさっぱりわからず、そのことについて何らかの確信を得るより前に、先に呟きが漏れていた。
「ゆうこおおおおっ、ゆうこおおっ、ゆうこおおおおおおおおおおっ!」
喉の奥から絞り出されたような、そのいかにも苦し気な響きを耳にして、最も困惑したのはこの私自身である。……ユウコオオオだと? いったいそれは何なんだ? いや、誰なんだ?




