9月24日㊹
一言で言えば奴の歩行中の「振る舞い」、それこそ、真に私の苦悩を刻一刻と順調に増させるに足るものだった。なぜなら奴のヤバさ度合いは、冗談抜きでシャレにならないほどあまりにヤバすぎたからだ。先に私はDを「人物」と形容することに留保をつける物言いを弄したが、Dが「人ならざる者」であることを本当の意味で確信したのは、実際にはこの「尾行」を通じてのことだった。
もちろんこの手の「印象」(=尋常ならざるヤバさ)について、本来それが「Hの一員」であることを示す証拠だということは重々承知している。というかこれまでに嫌になるほど繰り返し述べてきたはずなので、他の方々にもお分かりいただけていることだろうと思う。あまりに自明に過ぎるので、断りさえ入れる気にならなかったが、先に「こどおじ」を「Hの一味」であると認定したこともまた、やはりまさしく同一の思考プロセスの所産である。
だが反面ここでは【D=Hの天敵】という、「こどおじ」の挙動から導き出された別の解釈格子を外から投げ込んでみることで、解釈はむしろ反転し、新たな別の可能性に向けて開かれていくこととなる。その「可能性」とは、Dもまた、「こどおじ」の目を欺くため、敢えてHの特徴を演じてみせているというものだ。翻って考えれば、Dが人智を超えたレベルのデブであることにも正当な理由が生まれる。つまりHのメンバーを演ずるため、「度外れ」というパーソナリティを無理やり自らに付与するため、あくまで計画的に自らを「ごく普通の人間」から「肉の塊」へと押し上げたということだ。
だがそれでもいかに正当な理由があろうとも、模範的な常識感覚を備えた私からしてみれば、Dの一挙手一投足というのはただ這いつくばりながらその様子を見ているだけでいたたまれない気持ちに襲われる(いわゆる「共感性羞恥」)こと必至の演目だった。なぜなら奴は誰かとすれ違うたびに、くだんの叫びと同じ類いの、「理解」不能というよりもむしろ「聞き取ること」自体が非常に困難な言述を、臆面なく吐き散らかしてくれたからだ。要するに俗っぽく言えばそこらへんの通行人に見境なく因縁をつけまくってくれていたということになる。
Dのその「振る舞い」が、例えば「看板を振り回すこと」、「悪臭を放散すること」、さらに「普通に歩けないこと」といった類の特徴とは異なり、というよりも十分に深刻なそれらの「特徴」をぶち壊してはるかに深刻なレベルで由々しきものだというのは論を俟つまい。その認定は、私の主観的な印象の所産というよりも、従前の3つの「特徴」とは異なり、最後に提示した新たな行動は、明確に他者に対して(悪い)影響を与えるものだったという点に端を発する。Dを仲間に引き入れるという大いなる目的が他にあったため、即座に飛び掛かって物理的に大人しくさせてやることはしなかったが、その「歩行」の過程において、私はいったい幾度、ポケットに忍ばせてある「黒ひげ」のナイフに手を伸ばしたことだろうか……。
そんな風に密かに多大なる葛藤と戦っていた私などどこ吹く風という感じで、Dはあくまでマイペースに歩み続けていた。あまりにデブすぎるせいで全身の肉がある種の「錘」、もしくは「枷」として働き、見た目にも明らかなレベルで円滑な前進運動を完全に封じてしまっていたが、それでも全く気に留めた様子もない。まさしく「天上天下唯我独尊」というわけだ。
改札口までたどり着くとどこからともなくICカード式の定期券を取り出し、器用に身をよじらせながら、いささかの躊躇もなくそこを通過していった。そうして今度はホームのベンチに陣取り、エアドラム?みたいな動きをひとしきり披露してみせた後、やってきた電車に何食わぬ顔をしたまま乗り込んだ。
もちろんロータリーからわざわざ足を延ばして駅へ向かって歩き始めた時点で、その「乗車」はあらかじめ想定然るべき展開だった。だが私個人としては、よく何の恥ずかしげもなく公共交通機関を利用できるなぁ、と感心したというのが正直なところだった。そもそも定期券まで用意してあるということは、「定期」的に同じような流れで移動を試みているということを間違いなく示唆している。……まあ、運動をすることはよいことだ、過度の肥満は寿命を縮めるとも聞くからな、だが貴様は、貴様だけは、悪いことは言わないから金輪際一切、一人では家から外に出ない方がよい……。
とは言えもちろん私に選択肢などない。さすがに改札を通過する時だけは立ち上がらざるを得なかったが、それ以外は階段を昇降する時でさえもヒラメの体勢を維持したまま、結局Dに続く形で奴と一緒に電車へと乗り込んだ。そしてすぐに、主に衛生上の観点から床に伏せるのをやめ、代わりに網棚の上に飛び乗ってそこに再びうつ伏せに横たわった。状況を可能な限り正確にご想像いただきたいので、身体の脇に車内広告としてクリスチャン・ラッセンの展覧会の知らせが掲げられていたことを情報として付け加えておこう。そこに載せられた絵の、青を基調とした色合いが、私を引きつけるのに十分な力を持っていたなどとするのはさすがに盛りすぎだが、私はそれをぼんやりと眺めるふりをしながら、その傍らで意識をいったんD個人から車内全体の景色へと向け直していた。注視する座標のこの変更は単なる気まぐれではなく、ひとえに「こどおじ」の所在を確認するためにこそ為されたものだ。既に電車の扉が閉め切られたということで、もし今視野の内に奴の姿が見当たらなければ、いよいよ本格的にDへのアプローチを開始する機会が巡ってきたことになる。私はそう、考え、行動に移したたわけである。




