9月24日㊲
そう、もはや皆まで言わずとも明らかだろうが、私は「こどおじ」の駆使する「ロケットランチャー(RPG)」に撃ち抜かれる様を、渾身の演技で以て見事に表現して見せたわけである。つまり私の口から出た先の「名文句」は、至近距離から文字通りの「乱射」を受けた者の発する苦悶の声だったということになる。そのような本来非常に深刻さの度合いが高く、決して軽々しく模倣などしてしまってはならないはずの「様子」を、にもかかわらず「演技」などという戯けた手法で以て軽々しく表現してしまうことが、あまりに不謹慎に過ぎる振舞いであることは重々承知している。だからこそ私は先に、「それは私の根源的な望みとは全くかけ離れたものであった」 と、物々しく繰り返し断りを入れたわけだが、それでもなお、私がそれを演じきってみせたことには、もちろん要因がある。しかも「問題」を補ってあまりあるほどの、あまりにも大きな「要因」が。
こう言った時にまず一つすぐに推し量られるのは、私が持ち前の慈悲深さから、「こどおじ」に対する同情心を捨てきれなかったという可能性である。つまり、奴の振る舞いの1つ1つが総じて馬鹿げており、またあまりに子どもじみていすぎているとわかっていながらも、反面、生育過程で事実としてそのようなパーソナリティを獲得してしまったということに対し、非常に不憫だという思いを拭い去ることができず、結果的に、ノッてあげざるを得なくなったということだ。
そしてもちろん、それは間違いではない。私ほどの度量の持ち主であれば、相手がどのような存在であれ、分け隔てなく情けをかけてやることが可能である。
だが私が「演技」に手を染めた「要因」として、より大きな割合を占めていたのは、簡単に言えば、「世界観の共有」への志向性である。どういうことだろうか。
何事においても言えることだが、安易に結論にたどり着くことを求めて思考を飛躍させるのは、かなり程度の高い「愚の骨頂」である。行き詰まった時こそ、むしろ最も初歩的な課題に立ち返ることを目論むべきなのだ。
例えばこの場合で言えば、その「初歩的な課題」として、観点の所在を自分の内部から相手のもとへと移し替えることが挙げられる。簡単に「相手の立場から物を考えることを意図したのだ」と、そのように言い換えてもよい。
相手の立場から物を考えること。
恐らく保育園か小学校ぐらいの頃に、ある種の「しつけ」の一環として繰り返し教え込まれるはずの(……いやだがもしかすると、それは極めて特殊だった「我が家」だけの風習なのだろうか?)その思考上の運動は、殊に既に成人して久しい時期に該当する「この場面」においてこそ、何よりの真価を発揮することとなる。なぜならこれまで何度も述べてきている通り、「こどおじ」は明らかに相当イカれており、それゆえ仮にそいつに対して何らかのアプローチを試みるのだとすれば、唯一可能な手法はまず以て自らも同程度の異常性を獲得し、奴の目線から物事を捉えること以外であり得ないからだ。これが先に提示した「世界観の共有」というフレーズの含意である
もちろんこう言うと、「いやそもそもそんな『異常者』など放っておいて、貴様はできるだけ早く火災現場に向かうべきなのではないか」と、一丁前に意見をほざき散らしくさりやがる者が出現し始めるかもしれない。確かにある面で、それは正論と言えるが、その実、「最適解」ではない。既に発生した火災の実況見分を行ってみたところで、全くの無意味とは言わないが得られるものなどたかが知れている。そもそも「犯人」は既にわかりきっていてそれは間違いなくあの「少女」だ。だからむしろなる早で取り組むべきなのは、くだんの「火災」について何かを知っている、もしくは何らかの形でそれに関わっている、と思しき「こどおじ」から、搾り取れるだけ情報を引き出すこと、それ以外にないわけである。
だがさすがは「こどおじ」と言ったところで、奴はこちら側の意向を本当にほんの1ミリたりとも勘案するつもりがないようだった。
私の「名演」を目にするや否や、RPGを脇に置いて立ち上がると、足早に近寄って来た。虚を突かれた私は回避が遅れた。その結果、次のようなやり取りに無理やり巻き込まれざるを得なくなった。
「……楽しいか?」
「ぐぼ……、え?」
「そうやって叫び散らしてると、楽しくて楽しくて、仕方がないというわけか?」
「……いや、楽しい……わけ、ねえだろ」




