9月24日㊱
「おい、そろそろ茶番はしまいだ」
しかしもちろん、返答はない。反応さえない。頭の中で30秒ほど数えて待ってはみたが、その間に「こどおじ」が為したことと言えば、やはり架空の「何か」を目掛けて、仮想的に砲撃を試みることだけだった……。もはや呆れを通り越して、恐怖を覚えるレベルである。
もっとも「異常者」に声をかけるなどということは、元々本来的に私の望むところではない。いくら「名探偵」であろうと、心情的には「面倒事に関わり合いになるのはご免こうむりたい」というのが常に私の本音だ。つまりその時の「話しかけ」に関しても、それは私自身の恣意的な気まぐれというよりも、むしろ「(クモを助けたとされる)カン●タ」の野郎もひれ伏すレベルの慈悲深さの表れであるとして、万人に分け隔てなく受け取られて然るべきはずだった。
とは言え、外見的にも内面的にも「こどおじ」という表現がこのうえなく適合するその人物は、もちろん私の気遣いになど気づくはずもない。「こどおじ」は普通の「子ども」よりもさらに程度の進んだ「子どもらしさ」を備えているからこそ、「こどおじ」と呼ばれるのだ。「子ども」が「子どもである」ことは、何の変哲もないごく普通のトートロジーだが、「こどおじ」が「子どもである」ことは、明確に「論理的な整合性」を欠いている。まさしく誤謬の権化である。
そんなことは予めわかりきっており、また、ここ最近で同種の展開が繰り返されたケースについてはこれで既にいくたびだか知れないのであるからして、いくら筋金入りの「常識人」である私であっても、さすがに学習していなければおかしい。つまり結局のところ、「異常者」に「常識」を求めても無駄であり、だからできるのはただひたすら、こちらが心を殺し、諦めてしまうことだけなのだ。
そんなことは正直、「百も承知」だったが、反面、初めから期待値をゼロに下げてしまうことは、さすがに相手に対して失礼であると、私は最後の最後で根源的な良心の呟きを聞いた。裏を返せば、むしろ初めから期待していないのも同然だった私は、当然「呼びかけ」が敢え無く黙殺された場合の対策も事前に用意していたということになる。しかもその「対策」は、自らの置かれた状況の都合上、特別な道具などが必要ではなく、「羞恥心」さえ捨てれば、それで晴れて実現できる対策である必要があった。そして今は既に、「恥ずかしさ」にほだされ、二の足を踏んでいられるような段階にない。つまり、満を持してその「対策」を実行に移すより他に、選択肢がなかったわけである。
だから私はそうした。……いや、だが先にいま一度、断りを入れておこう。それは本当に絶対に確実に間違いなく、私の根源的な望みとは全くかけ離れたものであったのだ。
私はいったん「こどおじ」を追い抜き、奴の前方に回った。だいたい円形を成している噴水の台座のうえで、「こどおじ」のいる位置を4時とすれば、私が陣取ったのはそのほぼ対角線上、すなわちだいたい9時ごろに当たる位置だった。そしてもちろん、とある「位置」を占めるだけで私が満足して済ましてやるはずもない。だからほどなくして「こどおじ」がまた例によって「ダダダダ」などと幼稚なことを口ずさむに合わせて、私はまず後ろ向きに一歩跳ねた。それからさらにその場で無作為なタイミングで小刻みに跳ねることを繰り返す。全身を脱力し、何かを考えることさえせず、地面から脚へと伝わる反作用を全身へと伝えていく……。
何も事情を知らない者からすれば、あるいは楽しそうに踊っている様子に見えたかもしれない。だがもちろん、「食うか食われるか」という「捜査」の最中に私が「楽しむ」などということは絶対にあり得ない。
それでは何をしていたのかと言えば、だがしかし言葉で説明するよりも前に、まず「声」をお聞かせ申し上げ仕り致した方が早いように思われる。「こどおじ」の「ダダダダ」に対抗するように、私が跳ねながら発した、名文句である。
「うぐぅ、ぶっ、ふぐっ、ぶぐっ、ふっ、ぐぶふっ、ぐぼぉあああああああああああっ!」
……おわかりいただけただろうか……? いや、愚問だろう。わからないはず、ないのだ。




