9月24日㉓
「ちょっと、聞いてるの!?」
「……」
いきなり訊問口調で叱責された私は反射的に大きく目を見張った。初めはその自らの表情の動きに集中されていた意識が徐々に周囲へ拡散され、状況の理解が少しずつ進んでいく。だがその「理解」は最終的にはどこにもたどり着くことなどなく、いつも通り、「納得」からは遠く隔たったまま停滞を続ける……。
それゆえまずとにかく事実だけを述べれば、風俗店前でアスファルトにうつぶせに横たわり、まさしく「砂を噛む」ことを余儀なくされていたはずの私は、気づけばまたあの場所に戻っていた。あの場所、そう、Hのアジトの内部、あの忌まわしき「封印領域」である。
それだけでも精神的な動揺が許容量を超えるのには十分すぎるほど足りていたが、私を取り巻く具体的な環境は、決してその限りではあり得ない。
やけに近い距離にZがいて、下から見上げるようにして鋭い視線を送って来ていた。頑張って威嚇でもしているつもりなのかもしれなかったが、相変わらずの「恐竜」のコスプレ姿により、残念ながらすべてが完全に台無しになっている。
「ねえ、ちょっとカンタァッ! 聞こえてないの!?」
「……いや、聞こえてるよ、というか、聞こえていないわけがない、貴様の声が、もし聞こえないのだとしたら、最低限の日常生活を送ること自体を、早いところ諦めた方が良いだろう……、それにしてもどうした? えらく深刻そうじゃないか……」
「は? 親に向かってその言葉遣いは何? ああ、頭イタイ、一気に気分が悪くなった、ホント余計な神経使わせないでよ、デパート行くんだから、お姉ちゃん見習って早く着替えて来なさい、ユニフォーム姿がお気に入りなのはわかるけど、時場所場合を考えなさいよ」
「……デパート、だと?」
「そうよ、行きたいでしょ? 行きたくて仕方ないんでしょ? でもさすがにそれじゃ表、出歩けないだろうから、というかあたしが恥ずかしいから早く、早く着替えてきなさい」
「……」
オマエこそ、早く着替えてきた方がいいんじゃないかと私はまず思い、それに引き続く形でようやく、どうやら時間が戻っているらしいということに思い当たった。なぜなら少し前私は、MとZが同様の「デパート」をめぐるやり取りを行っているのを目撃していたからだ。ごく短時間のうちに同じ話を繰り返させられることがいかにストレスフルな課題なのかについては容易に想像がつくだろうが、反面その時のZは「デパート」について、いつも通り苛立ちこそすれ、特にめんどくさがるでもなく真剣にまき散らかしてくれた。つまりあらゆる想定を許されるのであれば、「デパート」をめぐるそのやり取りが「1度目」、とするのが最も整合的な解釈ということになるわけである。
もちろんその考えは冷静に顧みればあまりに荒唐無稽に過ぎ、私はすぐに馬鹿らしくなった。同じ流れのまま、自らが白昼夢に襲われたのだという風に、極力ソフトな方面へ思考をシフトするに至る。だがもちろん、それで何かがほんの少しでも進展したわけもない。
もっとも、全てが論理の外に配されていると思しきZの言動の中で、Mに関する情報だけは確かに一面で正鵠を射ていたようだ。実際目だけを動かして周囲の様子を窺っても、彼女の姿を見て取ることはできなかった。オオタニも同様に不在で、2人で一緒に駆け落ちでもしたのだろうかと考えると、なぜか心がひどくざわついたたので、仕方なく事態の把握もかねてこちらからZをツツいてみることにした。
「でも、もう結構遅いけどこんな時間から?」
言うまでもなく、先のMとほとんど同じセリフを繰り出したつもりだった。もし時間が戻ったわけではなく、それゆえ同じセリフをごく短期間のうちに2度も繰り返し聞かされたのであれば、いくら異常者とは言え、少なからず怪訝そうな反応を見せるはずだ。先にそういう考えのもと、発せられたセリフだったが、果たしてZは何食わぬ顔でこう答えてくれた。
「大丈夫よ23時半までだから」
「……何が?」
「映画でしょ? 迎えに行くって、今朝伝えといたでしょ?」
「今朝、けさねえ……」
今朝。今日の朝。つまり今から半日と少し前のことだ。一般的な基準からすれば、どれだけ拡大しても「少し前」の枠組みを超えることはない。だがその時の私にとって、「今朝」というのはもうずいぶんと昔のことのように思われた。その時間帯に確かに属していたことはかろうじて思い浮かぶのだが、反面自分が何をしていたのかなど、詳細については既に全く思い出すことができなかった。Mに会ったのは、もうだいぶ夕方に近かったんだっけ……? だとすると、今朝の俺は、本当にいったい、何をしていたのだろうか……?
やはり24日だと、洗面所に向けて歩き出しながら私は思った。……やはり24日には、厄介なことがあまりに多く起きすぎている、つまり忌まわしい「慣習」は未だに確かに継続中というわけだ、来月10月24日も気を付けなければならない、いや、でも今日もあと数時間残っているから、まだまだ気を緩めるわけにはいかない。
そのように気持ちを新たにした私だったが、しかしいくら「気持ちを新たにした」ところで、そんなのは所詮「考える」ことの少しアクの強い派生態に過ぎない。した程度で抑え込めるほど、既に事態は安楽なものではあり得ない。
結局ユニフォームを脱ぎ、上下揃いの地味なジャージに着替えると、MととともにZの運転する車に乗り込んだ。出がけに時計を見ると、時刻は午後9時をわずかに経過したぐらいで、……やはり時間が戻っている……、と私は確信を抱いた。
だがだからと言って何かすぐに現実に対して大きな変革を起こせるはずもない。リアシートに浅く腰かけ、眠って意識を手放してしまわないように黒ずんだ窓ガラスをぼんやり眺めているぐらいが関の山だった。




