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接触Ⅲ②

 ところでついに念願の「風俗店」に到着した私は、まず時間をかけて看板に掲載された情報を隅々まで見て取った後、今度は視線を上下左右にそれとなく彷徨わせ、周囲の様子を観察することを開始した。要するに「すぐにわき目も振らずに店を突撃訪問する」ことを選択しなかったわけだが、それは決して私が臆したのだということを意味しない。むしろいつも通り、筋金入りの「注意深さ」の裏返しとして、肯定的に受け取られて然るべきだ。

 私が元来性的な事柄から距離を取っていたことはすぐ前で述べた通りだが、反面そのことは、「関心」自体が皆無だったことを意味しない。逆に関心は、もとより人一倍強い方だったと思う。しかしそれは例えばかつてジョルジュ・バタイユか誰かが誰でも知ってることをドヤ顔でもっともらしく述べてくれていたように、禁忌をあえて破り侵犯するところにこそ至高の体験が生ずるだなどというありふれた考え方とは何の関係もない。むしろ私の場合は、リアルな性体験から無理やり隔絶されていたからこそ、せめて完璧な「無知」にだけは陥らないようにするべく情報収集を欠かさずにいた、というのが正解だ。

 実際学生時代などはその類の動画や画像の収拾に熱を上げていたものであり、同じ流れでその場所に風俗店があることも前々から知っていたわけだが、それでも実地調査を進めたことはなく、こういった店を利用する際の作法などについては正直全くわからなかった。そもそも「性感ヘルス」などと謡われているようだが、それはいったいどのような種類のお店なのか? 本当に「童貞」を捨てられるのか……? 「D・O・U・T・E・I」などという、響きからして滑稽さの権化みたいな存在が、そこを訪れて本当に大丈夫なのだろうか……? もしかするとそこを経営しているのは、Hの息吹のかかった連中なのではあるまいか……?

 まさしく「未経験」ゆえ、止めどなく湧き出てくる不安を拭えずにいた私は、よりによって「目的地」を前にしたところでそこをある種の「魔境」のように捉えてしまい、足を踏み入れるのに踏ん切りをつけかねていたのである。

 もちろんだからと言って、いつまでも二の足を踏み続けているわけにはいかない。

 看板の点検の後に改めて周囲へ警戒の視線を向けたことには、だからある意味「最終確認」の意がこめられていた。「童貞である/ない」の間に横たわる、極めて大きな断裂を乗り越える「飛躍」へ踏み切るための最後の確認……。

 しかしその結果、事態はまたしても、予想外の方向へと舵を切ることとなる。

 まず目に飛び込んできたのは、見るからに屈強そうな一人の男の姿だった。

 男は風俗店入り口近くの自販機に凭れながら煙草を吸っていた。鼻が高く彫りが深い容貌は、濃く日焼けした肌の色と、上半身に纏った白Tシャツが今にも裂けんばかりの体躯と相まって、「異邦人」であるとの印象を与えてきた。従業員なのか、それとも客なのか……。距離にして恐らく3メートルも離れていなかったため、すぐに目が合い、睨めつけるような、こちらを品定めするかのような鋭い視線を送り返されたことで私はすぐに視線を逸らさざるを得なくなった。恐れからというよりも相手の印象に残るのを避けるためだ。ほぼ同時に後ずさりさえしかけたが、頭の中で再び「童貞はいつも舐められる」との文言が閃いたところで踏みとどまり、むしろ距離を縮めていく方向へと自らを叱咤した。そのはずだった。

「え?」

 しかし次の瞬間、私は思わずそう呟き、足を止めていた。

「異邦人」のさらに向こう側、店の入り口の真ん前に、いつしか別の一つの人影が生じていた。その人物は、頭上からの照明の光を受け、確かに「人【影】」と称されて然るべき、黒々とした翳りを身にまとった状態で立っていた。だが「影」云々よりも何よりも、その人物が私の気を引いたのは、ひとえにそいつが風俗店の敷居をくぐろうとしていたことによる。店の入口には自動ドアではなく、手で押すか引くかして開く扉が設置されており、「人影」はその取っ手の部分に手を伸ばして今にも触れようかという状態にあったのだ。

 もちろん、「風俗店に入る」という行動は、それ自体、極めて一般的な事象の一つではある。ちょうどお腹が減った時に、牛丼屋を見つけ、その中に入ろうとするのと同じことだ。実際、先に紹介した「異邦人」が「風俗店に入」ろうとしていたとすれば、私は正体不明の胸糞悪さをこらえながらも何ら驚くことなく、その様子を冷静に観察し続けることができただろう。だが、そいつは、ダメだった。

 反射的に目を細めて一瞬その「人影」を凝視し、静止した私だったが、すぐに眉間の緊張を解き、先よりも速い速度で再び歩き始めた。真夏の暑さに当てられたのか、地面のアスファルトが足を下ろすたびわずかに撓んでいる気がした。いずれにせよ、ほとんど駆け足同然になってしまうほど私は焦っていたということだが、その理由はくだんの「人影」が、あまりに小さすぎたという点に求められる。もちろん目視で判断しただけなので定かではないが、どれだけ年長に見積もっても、小学校高学年を越えはしないように見受けられた。少なくとも、風俗店を訪れてよい年齢ではない。

 さらにその「幼さ」の感を助長するのに一役買っていたのは、「服装」である。簡単に言えば、「人影」は浴衣を身にまとっていたのだ。青色の目立つ地の生地に、朝顔の模様……、足には鼻緒のついた草履をつっかけている……。

 要するにこれから夏祭りに出かけようとしている「少女」を彷彿させる出で立ちだったわけだが、残念ながら今は9月の終わりであり、夏祭りに出かけるには少し遅すぎる。いやそれよりも何よりも、仮に時期の問題がクリアできたとしても、その場所が夏祭りの会場でも何でもなくて、風俗店の真ん前だという事実を変えることはできない。つまり「浴衣」を着た少女が一人で訪れてよい場所ではない……、だと?

 そこまで考えを巡らせたところで、私はもう一度立ち止まった。「異邦人」の目前だったが、既にその存在は意識からほとんど外れている。代わりに頭を支配していたのは、所謂「デジャブ」である。それほど遠くない過去において、全く同じようなものを見て全く同じような考えを思い浮かべたことがあるような気がする……。その感覚は、やがて1つのイメージへを形作る。

 口の端が裂けたように見える、気味の悪い笑顔。……そうか、思い出した。

 既視感の出所を掴んだところで、歩みを再び再開する。自分でも怪しく思われるほど不審なその「ストップ&ゴー」の連続に対し、何を感じたのかは知らぬが、「異邦人」は頭を振るような動きを見せてからしゃがみこみ、地面にタバコの火を押し付けて消すと、その場を離れ、闇の中に消えていった。男が仮にHの一味だとすれば、私の居所を掴んだということで、また何か悪だくみの算段を立てるべく仲間との合流を図りにいったということになるのだろうが、正直そんなことはどうだってよかった。私の意識はやはりひたすら、目の前に新たに現れた「少女」に対してのみ集中されていた。ただしその理由は、単に浴衣姿の「少女」が、場違いに風俗店に入ろうとしていたということだけに拠らない。むしろより大きな要因は別にある。

 そう、もはやお分かりだろう。

 その「少女」が、かつて「マンドリル」を追って訪れた豪邸で遭遇した人物と同じだったという点にこそ、私の心身両面における動揺の最大の要因がある。

 ……こいつはいったい、こんなところで何をしているのか? 何がしたいというのだろうか……?


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