表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
132/167

手記⑩

(↓ここから新たな見開き2ページの開始)

拠っている。


 ところで俺が人生を通じて出会った人物の中で、同様の仕方による「相関主義」批判を自覚的に遂行していると評価できた者は唯一夏目漱石くんだけである。夏目くんの「こころ」をご参照されたい。電脳空間上に構築された英知の結晶、言い換えればまさしく現代的な集合知の代表と言いうる「Wikipedia」を参照する限り、くだんの作品においては「人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現されている」そうだが、私見によれば本作の白眉はそこにはない。より着目すべきなのは、意中の人物を無理やり力づくで奪い取られたというわけではなく、単に「告白」のタイミングを逃して先を越されただけ、つまり完全なる自業自得であるにも拘らず、「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」・「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」などとまさしく「当てつけ」のような文面の遺書を残して自殺する重要人物が、「K」という風に名指されていることである。なぜならそのローマ字が他でもなく「K」であるとの事実は、タイトルである「こころ」と呼応することで、その自殺した人物の「よそよそしい頭文字」が本当に「K」であったということではなく、作者である夏目くん自身の赤裸々な「こころ(Kokoro)」を象徴的に具現化するべく造形されたのがその人物だったという裏返しの真相を不可避的に浮かび上がらせることになるからだ。つまり夏目くんは「こころ」の執筆に際して、自らの脳みその内容をそのまま垂れ流すのではなく、「別人の立場を借り受け、それを間接的に披歴するという形式」を確かに意識的に採用したというわけだ。さすがに「明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人」(Wikipedia)とされる何やら凄そうな男はやることが違う。

 しかし、夏目くんは実のところ「K」ではなく、尋ねてもないのに「私」などと名乗り、尋ねてもないのに、「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない」などと屈託なくわけのわからない能書きをたれ始めても平気でいられるという意味で極めて無反省な人物を物語全体の「語り手」として据え、さらにその人物を所謂「傍観者」的なポジションに安住させたという点で誤ったと言ってよい。既に少しだけ紹介され、さらに以下において俺によって再び綴られることになる「物語」が、一見すると「探偵小説」の形をとっていながら、それでいて「傍観者」ポジションの人物(例えば「ワトソン」のような)ではなく、「探偵」自身によって語られるものとなっているのは、夏目くんが最後まで抜け出すことのできなかった、「語り」に対する屈託のなさを回避するための措置である。古今東西の「探偵小説」を参照していただければ容易にそれと知れる通り、それらにおいては基本的に「探偵」が「語り手」の立場に据えられることはない。恐らくその理由は、「探偵」本人が自らの解決した事件について、ある種の「武勇伝」めいた語りを行うなどというのはあまりに興ざめが過ぎるためであると思われる。だが俺は今回敢えてそのタブーを犯すことにより、「探偵小説」を「探偵小説」ではない仕方で提出することを試みた。「探偵」を「語り手」として据えることで、「探偵小説」にその硬直しきった紋切り型的な特質を手放させ、新たに全く別の同一性(もちろんここで言う「同一性」とは、「同一性を持たないこと」と同義である)を付与することを意図したということである。

 最後にもう一点、ではそもそもなぜ今「相関主義」批判なのだろうか、という疑問に俺はまだ答えていない。だがその答えをここに自明な形で提示することはしない。というよりもできない。繰り返しになるが、「相関」は固定化された「思弁」、及びそれによって導き出されたある種の「確定記述」をいくら積み重ねたところで克服することはできず、むしろその批判はある種の「アクション」へ常に参与し続けることによってのみ実現され得る。ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルにまたしてもご登場願えば、「有限な対象においては、いわゆる完全性は、完全性への接近をかぎりなくつづけることなのである」(『法の哲学』)。だから上述の疑問の答えは、〝その男〟についての「物語」を参照し続けることで自ずと、だが極めて朧げな形で浮かび上がってくることになるだろう。

 いずれにせよ重要なのは、繰り返しになるがやはり俺が俺として語ることではなく、「俺が語りたいこと」を、「俺が語る」という仕方以外の方途で提示することだ。そして「俺」に変わる形で「物語」の語り手に躍り出た「指示子」=〝その男〟は、だから「相関主義」批判を具体的に体現するある種の「エージェンシー(=行為体)」としてのみ存在を要請されているに過ぎず、ただ一つ、「俺でない」という否定神学的な仕方でのみその影をかろうじて、それも一瞬だけ捉えることが可能なのである。

 〝その男〟は俺ではない。

 それが始まりの「テーゼ」である。


  2、

 

 とにかくそんな風にして2人して床にあぐらをかき、額を突き合わせるようにして「人生ゲーム」のボード板に向かっていた時、インターフォンが鳴った。ちょうど私がルーレットを回した瞬間だった。(←ここで見開き2ページの終わり(再読後の5、6ページ目))


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ