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手記⑨

(↓ここから新たな見開き2ページの始まり)

「相関主義」を批判するためにメイヤスーが持ち出すのが、「偶然性」や「祖先以前性」である。つまり「必然性」を欠いているかのように偶然発生する出来事や、「先史時代」、すなわち「祖先以前」的な出来事に関する諸々は、人間の主観の外側、すなわち人間の主観をある種のフィルターとして機能させることで成立する「相関」の影響を免れ得るのではないかということだ。同じく「思弁的実在論」の論客の一人とされるグレアム・ハーマンは、その「相関」を離れて「まとまりをなしたさまざまなもの」、すなわち日常的に遭遇する混然とした事物の断片として現れるという意味合いにおいて絶対的な実在性を帯びていると言えなくもない対象を「オブジェクト」と名指し、独自の「オブジェクト指向存在論」を提唱した。だが私見によれば、彼らの見解はいずれも、当たり前のように「自分の脳みそ」を媒介して生み出されてきているという意味で、結局のところ、「相関主義」の「内部」に属すと位置づけられて然るべきだ。例えば柄谷行人は次のように述べている。


 「内省と遡行」において、はじめて真正面から言語について考えはじめたとき、私はいわば《内部》に閉じこめられた。というより、ひとがどう考えていようと、すでに《内部》に閉じこめられているのだということを見出したのである。一義的に閉じられた構造すなわち《内部》から、ニーチェのいう「巨大な多様性」としての《外部》、事実性としての《外部》、いいかえれば不在としての《外部》に出ようとすること、それは容易なことではなかった。それは、内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させるということによってしかありえない、と私は考えた。(『内省と遡行』(講談社・1985))

   

 哲学が基本的に「内省」の賜物であり、それゆえその営みに傾倒し続ける限り構造的に《内部》に閉じ込められ続けてしまうこと。柄谷はそこに自身の行き詰まりを覚えた。それを解消するために彼がとった方策が所謂「ゲーデル的脱構築」(東浩紀)である。引用箇所において、「内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させるということによって」行われた、と述べられているのがそれだ。「内省」を極限まで深化させることで、逆説的にではあるが、それによっては決して到達できない《外部》を見出し、構造自体を「自壊」させる。その試みは、容易に想像できる通り、資本主義的な傾向をさらに推進することでそれからの突破口を見出そうとする所謂「加速主義」のあり方とも確かに照応している。

 だが柄谷は、「内省」の徹底による「《外部》との遭遇」という矛盾した事態に伴う根本的な齟齬の気配に、恐らく耐えることができなかった。つまり「内省」している限り、それは結局のところ「内部」に回収されてしまうのではないかというわけだが、その意味でエトムント・フッサールによる次の記述は非常に示唆的である。


 私が自分を自然的な人間として捉えるいなや、私はまさにすでに空間的世界をもっており、私を空間のうちにあるものとして捉え、それゆえ、その空間のうちに〈私の外〉をもつことになる。それゆえ、世界の捉え方の有効性が、すでに問いの設定のなかで前提され、問いの意味のなかに入り込んでしまっているのではないだろうか。(浜渦辰二訳『デカルト的省察』(岩波文庫・2001))


 そういう事情から再び「転回」を余儀なくされた柄谷は、最終的に「探究」という標題でまとめられる文章群の中で、「「教える」立場あるいは「売る」立場に立ってみること」を提唱することとなる。「コミュニケーション」の成立、もしくはそれを保証する規約の存在を前提しないことによってのみ、人は《外部》と遭遇できるということだ。「教える―学ぶ」及び「売る―買う」という2つの関係性においては、どちらも前者、すなわち「教える」立場及び「売る」立場とがそれぞれ「学ぶ」立場と「買う」立場と交換可能ではなく、むしろそれらの劣位に位置付けられており、それゆえ両関係における「コミュニケーション」は、「暗黙の了解」的に滞りなく進められるわけにはいかない。そこで「命がけの飛躍」(マルクス)がその成立要件として不可避的に必要とされるわけである。

 しかし繰り返しになるが、いくら《外部》について語ったところで、「自分の脳みそ」を働かせる形で思考され、生み出されたものをそのまま垂れ流しにしてしまっている時点で「相関主義」の磁場から逃れ出ることは決してできない。俺が「「相関主義」を乗り越える批判」とやらを意図しておきながら、それでいて俺自身の考えを赤裸々に開陳するのではなく、〝その男〟について「物語」るなどという、一見全く無関係に思われるほど迂遠な方法を採用したのはひとえにそのためである。「相関主義」批判を行うためには、「相関主義」批判を行ってはならないという難解なアポリアがここには埋伏している。つまり俺による「相関主義」批判がそれとして十全に機能するためには、俺による「相関主義」批判という形ではなく、別人の立場を借り受け、それを間接的に披歴するという形式に依存することが絶対に必要不可欠なのである。

「物語」を始めるにあたって、俺が「〝その男〟について、何も知らない」と物々しく「宣言」したのはひとえにこのような事情に(←ここで見開き2ページの終わり(再読後の3、4ページ目))


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