手記⑧
(↓開かれたページの文章の始まり)
偵」にとって何より必要なのは言うまでもなく、類い稀なる思考力である。だからこそ私は依頼がなくて暇な時、何らかのゲームに取り組むことで、思考力を極限まで研ぎ澄ますことを自らに責務として課していた。トランプやウノなどのカードゲーム、人生ゲームなどのボードゲーム、将棋やオセロ、さらにはテレビゲームで対戦を行うこともあった。だから「ゲーム」への取り組みからは、緊張感を手放して遊びに興じていたとの感ではなく、依頼の解決に取り組んでいる最中以外でも四六時中頭脳を休めることなく働かせ続ける禁欲的な側面を読みとっていただくべきなのである。
※
これが〝その男〟について、俺が進めていこうとしている「物語」の冒頭である。
だがそもそも、なぜいきなり「〝その男〟の〈物語〉」なのか? 俺は「25歳になったばかりの今年の夏」に体験した何やら決定的な出来事について、今まさに語り始めようとしていたのではなかったのか? それがいきなり「名探偵」とかいうのに焦点を当てた記述に変わったのはなぜなのか。その「名探偵」こそが、俺の言うところの「〝その男〟」なのか? それとも全く別の第三の存在について言及が始まったということなのだろうか……?
受け取り方によっては「唐突」なように感じられなくもない「「俺」による〈ナレーション〉」から「〝その男〟の〈物語〉」へのこの移行。困惑したとしても、恥じることなどない。むしろそれこそがこの場合における「正常な反応」であり、その「反応」を喚起するという点にこそ、今まさにここに生み出されつつある本エクリチュールの眼目がある。つまり、確たる「理解」に決して結実することがないことこそ、この「物語」の何よりの特性というわけだ。
とは言え、「語り」に対して誠実に向き合い、それを徹底的に突き詰めた結果、露出させられることとなった「理解不能性」が、「単に滅茶苦茶なだけ」であると誤認され、論難されることになるのは俺の望むところではない。それゆえ気乗りはせぬが、敢えて少しだけ、「わかりやすさ」を意識した記述に紙面を費やしておこう。
ここでの俺の試みの価値を正確に測るためには、それが例えば『金閣寺』とやらいう、あまりにひねりのなさすぎるタイトルの「作品」とやらを作り上げてしまった三島由紀夫、自称「世界の『MISHIMA』」とやらの、あまりに腑抜けた振る舞いと全く性質を異にするものであることをふまえておく必要がある。俺の試みは自称「世界の『MISHIMA』」のそれとは違い、「実際の出来事」にほんの一握りの装飾を加えただけで「物語」を創り上げられたのだと自惚れ、さらにそれを「芸術」であるだなどと屈託なく吹聴することによって成立しているのではない。逆に言えば、自称「世界の『MISHIMA』」のそれは実際には小学生の夏休みの朝顔の観察日記と同じレベルにあるということだ。朝顔の観察に一心に取り組む「小学生」とは異なり、明らかに気持ちよさを覚えている風であるところから、「世界の『MISHIMA』」の所為の方は特別に「公開オナニー」と言い換えてやってもよいだろう。
だがもちろん、今まさにここに俺によって開陳されつつある「〝その男〟の〈物語〉」は、決して「朝顔の観察日記」でも「公開オナニー」でもない。それは一言で言えば、まさしく例によってあのイマニュエル・カントが、人間の思考運動を統御する超越的審級としての「理性」の働きに着目し、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」との大層キャッチーなフレーズで以て、頼んでもないのに主客のヒエラルキーを転倒させてくれて以来、長きにわたって人々の思考を支配してきた「相関主義」を乗り越える批判の一形態であることが意図されている。
「相関主義」について、「思弁的実在論」の代表的論客として事あるごとに言及される傾向にあるカンタン・メイヤスーは次のように述べている。
私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう。(中略)
相関主義とは、主観性と客観性の領域をそれぞれ独立したものとして考える主張を無効にするものである。私たちは主体との関係から分離された対象「それ自体」を把握することは決してできないと言うのみならず、主体はつねに対象との関係に置かれているのであって、そうでない主体を把握することは決してできないということも主張する。(千葉雅也他訳『有限性の後で』(人文書院・2016))
このような(←ここで見開き2ページの終わり(再読後の1、2ページ目))




