手記④
経験上、人は誰でも1つぐらいは秘密を抱えているものだ。例えば世間一般に「既婚者」と呼ばれる連中。奴らは普段外で他人と接する際には、一人前の「大人」とやらを演じ、何やらそれらしく厳かな風を装って振る舞っているようだが、家庭内においては、主に「配偶者」と名指されたパートナーとともに、夜な夜な真っ裸になって「組んずほぐれつ」を繰り広げているという意味合いにおいて筋金入りの「秘密主義者」であると言ってよい。ちなみにこれは俺個人の下世話で卑猥な指摘などではない。例えば所謂「絶対的な他者」の問題を極限まで深く探究したとして、方々で「真の博愛主義者」との名声を博していると思しきエマニュエル・レヴィナスもまた、次のように述べている。
私たちは衣服を着た存在たちと関わっている。人間はすでに身繕いという基本的な気遣いをした。人間は鏡を見、自分の姿を見た。顔を洗い、その表情から夜の気配を拭い去り、本能的な宿直の跡を消し去った――彼はこざっぱりとし、抽象的になる。(西谷修訳『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫・2005))
「夜の気配を拭い去り、本能的な宿直の跡を消し去」る……。例によって晦渋で重厚な表現に昇華されてはいるものの、そこには間違いなく、所謂「夜の営み」と、それに付随する「乱れ」の影を窺うことができる。短く暗示的ではあるものの、その実、極めてセクシャルな内容を孕んだ一節なのである。
また他に例えば「人は見かけによらない」という成句を参照せよ。そのもはや紋切り型と化した感さえある陳腐な文言は、「人」という主語を「見かけによらない」という述語と直接結びつけている点において、確かに俺の考えと合致する。裏を返せば、「見かけ」以外の部分(=「秘密」)にこそ、人を「人」たらしめている要因が存するということだ。
だが私見によれば、「誰でも」「1つぐらいは」「抱えている」という「秘密」には危険が伴う。
発覚した場合にマズい立場に追い込まれるということではない。自分の不始末の責任を自分が取るということの、いったいどこが危険だというのか? だからそうではなくて俺が指摘したいのは、その「秘密」があまりに大きなものになりすぎるとやがて「抱え」きれなくなり、ついには持ち主の方が壊れてしまうということである。そのような事例を、俺はこれまでに何度も、目にしてきたし、もちろん自分自身もまた、例外ではない。
それではこの俺に関して、「持ち主」の側を「壊」してしまいかねないほど大きな「秘密」とは、いったい何だろうか?
端的に言えばそれは、自らが若干4歳にして、「子持ちの配偶者」の称号を襲名し、同時にその地位を絶対的なものとして確立する段まで一足飛びに駆け上がったことだという風に、ひとまず名状することが可能である。
これだけ述べただけで、俺を取り巻く事態の絶望の度合いの深さは、既に十分にそれと知れたことだろうと思う。一応同じ表現を繰り返す形で改めて断りを入れておけば、俺が「「子持ちの配偶者」としての地位を絶対的なものとして確立し」たのは、「40歳」ではなく、確かに「4歳」の時なのだ。
だが「十分にそれと知れたことだろう」という前言をすぐさま翻すようで恐縮だが、仮に表面的な意味内容の把握は可能であっても、その「苦境」の実態について、当事者以外の者が真に理解することは恐らく困難を極める。なぜなら世間一般の偉い偉い人間様たちのごく平均的な集団においては、同種の経験をしたことのある者はおろか、そもそも俺が何を言っているのか想像することだにできないという者がほとんどのはずだからだ。
それゆえ死ぬほどの恥ずかしさを歯噛みして堪えつつ、今しばらく説明を続けよう。
きっかけは父親の失踪だった。




