突入⑩
オオタニは初め、台所のカウンターからリヴィングに向かって身を乗り出すようにしていた。その体勢の意図はさっぱりわからなかったが、大柄な体躯のせいで浜辺に打ち上げられたトドにしか見えない。
しかし私が思わず「オマエ……、生きてたのか?」と呟くと、まるでそのタイミングを待っていたかのように、「茶番はしまいだ、これ以上は付き合ってられない、そんなにママゴトがやりてえなら、邪魔しねえから2人で好きなだけやってろ」とだけ言い、身を起こした。そして引き止める間もなく踵を返すと、リヴィングとは逆側の、もう一つの出入り口の方から足早に姿を消してしまった。再び現れてから消えるまで体感にしてだいたい30秒ほど……一体何がしたかったのか、マジでさっぱりわけがわからない。
いずれにせよ、オオタニのその一言に対して誰も何も言わなかったところから察するに、私だけでなく他の2人もまた、恐らく同様に呆気にとられていたようだった。俺に対してはあれほど罵詈雑言をぶつけてきたくせに……、いったいどういう風の吹き回しなのか?
だが結局それも所詮一瞬に過ぎず、すぐに銘々が弾かれたように別々の行動に移った。
まず先陣を切ったのはZだった。「ウグウッ!」とか何とか、くぐもった声でなかなか面白い響きを漏らしたかと思うと、その場に崩れ落ちることをした。内股で正座したまま|(所謂「アヒル座り」)、両手で顔を覆い、号泣らしき動作を開始する。もちろん私には理由が全く分からない。だがそれを見たMは何かを理解したらしく、「ちょっとカンタッ! あんたいい加減にしなさいよッ!」とか何とか、先ほど同様、ほんの一ミリたりとも謂れのないはずの叱責を怒気混じりでごくごく真剣に投げかけて来た。もちろん私には理由が全くわからない。さらにそうかと思えば今度はしゃがみ込み、Zに寄り添うようにして、その背中を擦り始めた。しかもいつか耳にした覚えのある、あのフレーズを口ずさみながら……。
「……まーかーはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょうー……」
もちろん私には、その理由も意図も、何もかもが曖昧模糊としてマジでわけがわからない。
……というかこの「アジト」と「事務所」の両方でこれまでに合計して2度も(つまり今回が3度目)聞かされてきたお経の詠唱は、その尋常ならざる「異様さ」の度合いから、てっきりZによるものだと思い込んでいたが、実際にはハギワラヨウコ、貴様の仕業だったということなのか……?
とは言え少し考えてわからないことを、そのまま考え続けていればやがてわかるようになるのだと信じ込み、ひたすら思弁の沼に身を浸し続けるというのは、「大の大人」の在り方として、あまりに楽天的で屈託がなさすぎる。この時のように、問題がただひたすら複雑化の一途を辿り、そのせいで際限なく膨れ上がり続けている状況とあればなおさらだ。
それゆえ私はとっさに気持ちを切り替え、シンプルに、唯一はっきりしている「今やらなければならないこと」に従って行動選択を行った。それとはすなわち、オオタニを追うことである。
台所を通り抜け、奥の出入り口から「コの字」型になった細い通路へ移った。そのままの流れで脱衣所と洗濯機置き場、さらに浴室、洗面所と順に通過していく。初めて見る場所のはずだったが、やはり初めてという感じは全くなくて、特に迷うことなく、道なりに前進を続けた。
そして気づいた時、私は既に玄関の近くまで戻ってきていた。
迂路を用いたとは言え、リヴィングからそこまでの途上に分岐の類は存在せず、また便所と浴室に対しては、通りすがりにわざわざ中をくまなく確認することまで行っていたため、誰かがそこに潜んでいる可能性は皆無だった。つまりだとすると、その時またしてもオオタニは姿を消してしまったということになる。もちろん既に何度も経験済みの出来事の繰り返しだったので、その事実に対して改めて驚いたりすることは特になかったが、厄介だと思う気持ちの度合いはそれで確実に強まった。
玄関のたたきを前にして、そのまま外に出るべきか、もう一度戻ってオオタニを探すべきか、逡巡した私が、結局最後に一箇所だけ内部を検めてみることに決めたのは、恐らくその「厄介さ」に基づく。「厄介」だからそのまま放置して立ち去ろうとするのではなく、「厄介」だからこそ、このままで済ませてやるわけにはいかないと固く決心し、気合を入れ直す。これこそまさしく「名探偵」の強靭なメンタリティの現れと言ってよいだろう。
ところで、私がその時想定した「一箇所」とは果たしてどこだったか?
もはや皆まで言わずとも明らかだろうが、それはあの「子供部屋=封印領域」である。
何か心当たりがあったわけでも確信があったわけでもない。もちろん自ら望んでそこに行きたかったわけもない。いくら「事務所」に酷似しているとは言え、「アジト」内で本当に見知っているところと言えば、リヴィングを除けばその場所しかなく、だから一応確認しておくかという気になっただけの話だ。
だがここでまたしても、私は「名探偵」の資質を如何なく発揮してしまう。
つまり再び室内を徘徊し始めたのは、正直単なる「気まぐれ」だったのだが、その結果、改めて廊下を辿り直し、「部屋」が視界に入ったところで、私の目は確かに、その中に入っていこうとするオオタニの後ろ姿を捉えたのだから。
慌てずに近寄り、いったん扉の前で立ちどまった。扉は完全に閉め切られてはおらず、隙間から光が漏れてきている。誘っているつもりなのか?と瞬間疑ったが、いずれにせよ、既に選択肢など存在しないと自らに言い聞かせ、決断した。……だいたい、奴は私の「助手」なのだ、つまり私とはそもそも立場が違うのだ、にもかかわらず、私の方がコソコソとしなければならないなどというのは絶対にどうかしている。
とは言え私が部外者だというのもまた確かなことなので、極力その「隙間」を広げないように気をつけながら、身体を室内に滑り込ませた。すぐに薄い靴下の布を透過して毛の短い絨毯の感触が伝わってきて、その慣れ親しんだ感触によってむしろ「何となく嫌な感じだ」と思い、反射的に苦笑を浮かべているうちに「それ」が現れた。
その結果、私は息をのみ、いよいよ笑っているような場合ではなくなった。
というよりも他のあらゆる問題が頭から完全に消えた。




